二宮清純: この人と飲みたい、今回のゲストは浪商(大阪・現大体大浪商)のエースとして1979年のセンバツ準優勝、同年夏はベスト4進出を果たし、さらにプロ入り後も中日とロッテで活躍した牛島和彦さんです。
牛島和彦 よろしくお願いします。

 

二宮: 今日は雲海酒造の『木挽BLUE』を飲みながら、40年前の夏を振り返っていただきます。
牛島 もう、そんなに昔のことになるんですねェ。では、いただきます。ウ~ン、この焼酎はキリッとした口当たりで、暑い夏にもピッタリですね。

 

二宮: 硬派なエースとして鳴らした牛島さんは、やはりお酒もロックが似合います。
牛島 いやいや、そんなに硬派ではありません。水割りだって飲んでいますから(笑)。でも、このロックは本当に美味しい。最初、口に含むと香りがグッとくるんですが、でも、それがスーッと引いて、後味がスッキリしている。キレがあるお酒ですね。

 

二宮: キレといえば、プロではリリーフとして涼しい顔でバッターを打ち取っていた牛島さんのピッチングと同じですね。
牛島 アハハハ。そう聞くと、一層『木挽BLUE』に親しみがわいてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 センバツの経験で夏快投

 

二宮: さて牛島さんといえば我々の世代にとって間違いなく甲子園のヒーローです。甲子園出場は春夏合わせて3回ですか。
牛島 そうですね。高2の春と高3の春と夏に出場しました。最初の春は1回戦で高松商(香川)に敗れ、翌年の春は決勝まで進みましたが、箕島(和歌山)に敗れ、準優勝でした。

 

二宮: 春の準優勝校ですから、夏の切符を手にしたときには「今度こそ全国制覇!」となったでしょう。
牛島 自分たちもそうですが、周りというか大阪中が「浪商、今年はいけるで」と異様なムードでした。

 

二宮: 浪商はもともと伝統校ですから、そうなるのもうなずけます。それで乗り込んだ夏の甲子園はいかがでしたか?
牛島 暑かったとか、そういう記憶はまったくないんですよ。たぶん試合に入り込んでいたからでしょうね。

 

二宮: いきなり上尾(埼玉)と延長戦を戦うなど、このときもハードな試合が続きましたね。
牛島 上尾のエースは右アンダースローの仁村徹でした。

 

二宮: 仁村兄弟(兄・薫)の弟、のちに中日に入った仁村さんですね。
牛島 はい。ウチは右打者がほとんどで、右アンダースローにタイミングがまったく合いませんでした。実際、9回2死まで0対2で負けていたんですよ。でもなんとか粘って、僕が同点2ランを打って追いつき、延長11回、3対2で勝ちました。

 

二宮: その後、倉敷商(岡山)、広島商(広島)、比叡山(滋賀)に勝って準決勝まで進出。ここで池田(徳島)に敗れましたが、牛島さんは全5試合を投げました。疲労感は?
牛島 それが、不思議となかったんですよ。というのも春の経験があったからだと思います。春は決勝戦まで進み、6試合に登板しました。準々決勝で延長13回を投げるなどして、めちゃくちゃ疲れていました。そういう状態の中で体力をセーブする投げ方が身についたのか、夏の甲子園はそんなにしんどいという感覚はありませんでした。暑さでフラフラになった記憶もありません。

 

二宮: 近年、球数制限導入の動きがあります。経験者としてどうお考えですか?
牛島 これは難しい問題ですね。第一に体のことを考えたら制限はあった方がいいと思います。幸い僕はケガをしなくて済みましたが、甲子園の後、練習試合で腰を痛めたことがありました。ただ僕の経験ですが、ヘトヘトで投げているときにピッチングを覚えたという部分もあるんですよ。しんどいから体のうまい使い方を覚える、という感じです。

 

二宮: 69年の夏、甲子園決勝で延長18回、262球を投げた太田幸司さんも同じことを言ってましたよ。

 

牛島 でも、球児がケガをすることだけは防がないといけない。「昔はこうだったから」では済まないですよね。球数だけではなく地方大会を含めた日程など、いろいろと考える必要はあると思います。

 

 ドカベン香川のパワー

 

二宮: さて牛島さんと言えば、浪商でバッテリーを組んでいたドカベンこと香川伸行さん(故人)とのコンビが忘れられません。香川さんは中学時代から大阪では知られた存在だったそうですね。
牛島 彼は別格でした。中学生なのにプロも使っていた日生球場のスタンドに放り込むんですから。

 

二宮: 牛島さんも中学時代から評判のピッチャーだったんですか?
牛島 いやいや。僕なんて強豪校からの誘いもなく、ノーマークの存在でした。

 

二宮: それがまたどうして浪商へ?
牛島 中3のときに準硬式の大会に出て、これは香川のいた大体大附属中がいつも優勝候補なんですよ。それで僕のいた学校が大体大付属中と対戦したんですが、僕はその前の試合で完全試合を達成していたんですよ。

 

二宮: パーフェクトとはすごいじゃないですか。
牛島 それで大体大附属中戦も延長12回まで2対2。結局2対4で負けたんですけど、このときに「牛島ってええピッチャーやないか」とちょっと注目されるようになったんです。

 

二宮: それで浪商にも誘われた、と。
牛島 はい。浪商はそのとき僕や香川、そして山本昭良(元南海)などを含め、3年後、強いチームにするために有力な中学生をスカウトしていたんですよ。

 

二宮: 香川さん、牛島さんたちが名門復活の切り札だったわけですね。
牛島 そうだったんでしょうね。いきなり、入学してすぐの春季大会に先発させられましたから。北陽を相手に3対2で完投勝ちしました。香川もホームランを打って、それで「今年の浪商は違うぞ」と注目されはじめたんです。その試合、入学式の翌日だったのでよく覚えていますよ。

 

二宮: 入学式翌日ですかっ! ちょっと前まで中学生だった選手が完投して、もうひとりはホームラン……。そりゃあ、マークされますね。それにしても香川さんのパワーはハンパじゃなかったそうですね。
牛島 浪商のグラウンドはレフトが90メートルで、左中間にブルペンがあって、その奥に4階建ての校舎が建っていたんですよ。香川の打球はその校舎を越えていきましたからね。

 

二宮: それ、140メートルくらい飛んでるでしょう。香川さんと言えば、3年春のセンバツ、アウトローのボール球を弾丸ライナーでバックスクリーン左に放り込んだことがありました。あれを見たとき、「こいつは何者だ?」と驚きましたよ。
牛島 1回戦の愛知戦ですね。アウトコースの低めを膝が地面に着きそうな感じでバックスクリーンの横に叩き込みましたから。ホント、彼のパワーは別格でした。

 

二宮: 強打のキャッチャー、しかもコロッとした体型が漫画の主人公そのままで、ドカベンと呼ばれたのも納得です。
牛島 でも、ドカベンとバッテリーを組んでいた僕は里中クンとは呼ばれませんでしたけどね(笑)。

 

二宮: アハハハ。里中はアンダースローだし、何より牛島さんとはキャラが違いすぎです。でも、甲子園に出てからのフィーバーはものすごかったでしょう。
牛島 もう、今までの生活が一変しました。それまで浪商といえば、女の子に注目されるような学校ではありませんでしたから。

 

二宮: 昔からちょっとヤンチャなイメージがありましたよね。
牛島 それが甲子園に出たら、街を歩いていても、電車に乗っていても注目の的。今までしていたことが何もできなくなりました。

 

二宮: 練習とか?
牛島 いや、練習などは大丈夫なんですが、普通に通学の電車で友達とふざけたりとかもできなくなった。どこでも誰かに見られてる感じでしたから。あとは文化祭。先生に「文化祭、休んでいいですか」と聞いたら、「何言うてんのや。授業と一緒やから絶対に来い」と。それで登校したら、文化祭にもファンの子が来てて、「キャーキャー」「ワーワー」。そうしたら先生が「牛島、お前がおったらパニックになる。一旦、帰ってくれ。でも午後、片付けにはまた来い」って。エーッ、ですよ(笑)。

 

 段ボール7箱

 

二宮: アハハハ。しかし、本当に牛島さんの人気はすごかったですね。ファンレターも相当送られてきたでしょう。
牛島 浪商は現役時代はファンレターは渡してくれないんですよ。学校が預かっていて、卒業のときに渡されるんですけど、僕の場合、大量すぎて父がクルマで取りに行きました。

 

二宮: クルマでですか!
牛島 はい。段ボールに7つくらいあったんじゃないですかね。

 

二宮: いやー、本当にすごい人気です。あとはファッション雑誌の「セブンティーン」にもよく、グラビアで載ってましたよね。
牛島 セブンティーンやプチセブン、そういう雑誌の人もよく取材に来ていましたね。でも、全然、イヤじゃなかったんですよ。というのも、カメラマンの人と仲良くなって、グラビアとは別に投球フォームの写真を撮ってもらったりしていましたから。

 

二宮: それは練習用に?
牛島 そうです。当時はビデオなんて高価だから持っていないので、フォームを確認するには連続写真を撮ってもらうしかなかったんです。その写真を見ながらフォームをいろいろ試行錯誤していました。

 

二宮: 牛島さんは高校時代から大人びたピッチングをする選手だと思っていたのですが、そういう自主的な工夫をしていたのも影響しているんでしょうね。
牛島 自主的にせざるを得なかったという面もありますからね。浪商野球部は部員が150人くらいいて、監督がひとりでノックなどをやってました。だからピッチャーまで手が回らない。練習試合の日程を伝えられて、要はそこで投げられるように調整しとけよ、ということなんですよ。

 

二宮: それは自主性が育ちますね。
牛島 はい。だからいろんなことを試しましたよ。プールに入って、体が水圧に負けないような立ち方とか、とにかく自分で思いついたことは何でもやっていました。

 

二宮: 他にはどんなことを?
牛島 子供の時から野球だけでなくサッカーや柔道もやっていたので、強くボールを蹴るときの体の使い方とか、背負い投げするときの上半身と下半身の動きとか、そういうものもピッチングの参考にしていました。

 

二宮: 野球オンリーではなかったんですね。
牛島 そうですね。プロ野球に行きたいというのもなかったし、小さいころは何でもやっていました。

 

二宮: プロ野球を意識したのはいつごろですか?
牛島 センバツ準優勝のときには、まだ自分がプロに行く、そこで通用するとは思っていなかったですね。何か話題先行というか(笑)。でも夏の大阪大会で8試合を投げきって、それで甲子園でも5試合を投げた。そのとき「これくらいのボールだったらひょっとしたらプロに行けるかもな」と思いましたね。

 

二宮: なるほど。さて、高3秋のドラフトのこと、そしてプロに行ってからのお話など、まだまだ伺いたいことは山盛りです。
牛島 もう話があっちこっちに行ってしまってすみません。

 

二宮: ではいったん、『木挽BLUE』のロックを飲んで落ち着きましょう。
牛島 このスッキリした味わいは、いいタイミングで声をかけてくれる野手陣のような安心感がありますね。

 

二宮: では、落ち着いたところで後編もよろしくお願いします。

 

(つづく)

 

<牛島和彦(うしじま・かずひこ)プロフィール>
1961年4月13日、大阪府出身。浪商高(現大体大浪商)のエースとして高2春(78年)、高3春と夏(79年)の計3回、甲子園に出場し、ドカベンこと香川伸行(故人)とのバッテリーで人気を集めた。高3春、準優勝。高3夏、ベスト4に進出も準決勝で池田高(徳島)に敗戦。79年秋、中日からドラフト1位指名を受けプロ入り。1年目から1軍に定着し、3年目の82年にリリーフ転向。17セーブでチームのリーグ優勝に貢献した。86年オフ、落合博満との1対4トレードでロッテに移籍。87年、24セーブをあげて最優秀救援投手に輝いた。89年は先発を務めキャリアハイの12勝をマーク。93年、現役引退。プロ通算53勝64敗126セーブ。2005年、06年には横浜(現DeNA)の監督を務め、05年はチームを3位に導いた。現在は野球解説者として活動中。

 

(写真・文/SC編集部・西崎)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回、牛島さんと楽しんだお酒は芋焼酎「木挽BLUE(ブルー)」。宮崎の海 日向灘から採取した、雲海酒造独自の酵母【日向灘黒潮酵母】を使用し、宮崎・綾の日本有数の照葉樹林が生み出す清らかな水と南九州産の厳選された芋(黄金千貫)を原料に、綾蔵の熟練の蔵人達が丹精込めて造り上げました。芋焼酎なのにすっきりとしていて、ロックでも飲みやすい、爽やかな口当たりの本格芋焼酎です。

 

提供/雲海酒造株式会社

 

<対談協力>
高田屋 品川店
東京都港区港南2-6-3 品川シントミビルB1F
TEL. 050-5269-7612
営業時間:
ランチ
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土 11時30分~14時30分(L.O.14時)
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金・祝前日 17時~23時30分(L.O.22時20分
ドリンクL.O.22時45分)
定休日: 日曜

 

☆プレゼント☆

 牛島和彦さんの直筆サインボールを「木挽BLUE」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はこちらのメールフォームより、件名と本文の最初に「鹿取義隆さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、郵便番号、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)を明記し、このコーナーの感想をお書き添えの上、お送りください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は19年9月12日(木)。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。

 

◎クイズ◎

 今回、牛島和彦さんと楽しんだお酒の名前は?

 

 お酒は20歳になってから。

 お酒は楽しく適量を。

 飲酒運転は絶対にやめましょう。

 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。


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