二宮清純: この人と飲みたい、ゲストは引き続き牛島和彦さんです。
牛島和彦 よろしくお願いします。


二宮: 雲海酒造の『木挽BLUE』を飲みながらの野球談義が続いています。牛島さんには甲子園のことやプロ入り後の活躍など、うかがいたいことがまだまだいっぱいあります。『木挽BLUE』のロックを飲みながら、じっくりやりましょう。
牛島 いただきます。芋焼酎は中日が宮崎で春季キャンプを実施していたこともあって馴染みのお酒ですが、当時よりもスッキリしていて飲みやすく感じます。女性に人気というのも納得です。

 

二宮: 牛島さんのマネージャー女史も隣でぐいぐいグラスを傾けていますね。
牛島 アハハハ。お目付け役がこの調子なら、仕事というより、さらにリラックスした感じでお話できそうです(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 阪神から横やり?

 

二宮: 春2回、夏1回と計3度出場した甲子園は、牛島さんにとって「青春」という言葉がぴったりの場所ですか?
牛島 そうですね。ただ、高校1年生のときから公式戦で投げていて、近いのになかなか行けない場所でした。それで2年生の春に初めて甲子園に出場し、「やっと来られたな」と感慨深かった。

 

二宮: 牛島さんなら初甲子園でも緊張なんかしなかったでしょうね。
牛島 いやー、それが意外とビビリでした(笑)。練習ではなんともなかったのですが、いざ本番となったらバックネットまで、かなりの距離があるし、キャッチャーが遠くに見えました。それで1球目はホームベースの手前でワンバウンドしましたよ。

 

二宮: 牛島さんがワンバウンドですか!? やはり甲子園は独特の雰囲気があるんでしょうね。
牛島 特に夏は浪商人気も手伝って、超満員の中で投げましたが、スタンドがブワーッと膨張して見えるんですよ。圧迫感というか、緊張感というか。あの感覚は甲子園だけのもの、本当に独特ですね。

 

二宮: さて、牛島さんは高3春の甲子園で準優勝、夏はベスト4でした。当然、プロからも引く手あまたでした。
牛島 僕自身、夏の甲子園でベスト4まで進み、それで「これならプロでも通用する」と手応えを感じました。ウチにはいろいろな球団のスカウトの方が来られていましたね。

 

二宮: 希望の球団は?
牛島 球団は関係なくセ・リーグ希望でした。というのも、当時、耳の不自由な祖父が僕の活躍を楽しみにしてくれていたんですよ。だから「プロに行くならテレビに映るセ・リーグ。ラジオでしかやらないパ・リーグはあかん」と。生意気だと言われましたが、そんなこともあって「パ・リーグから指名されたら社会人に進みます」とお断りしていました。

 

二宮: 結局、中日が単独1位指名で牛島さんの交渉権を獲得しました。あの年(79年秋)のドラフトは早稲田大学の岡田彰布さん(阪神)が6球団、日本鋼管の木田勇さん(日本ハム)が3球団競合でしたね。
牛島 巨人のスカウトもウチに挨拶に来られたみたいなんですが、左腕不足だったので木田さんを指名(結果、抽選でハズレ)しました。阪神は、地元・大阪の北陽高出身で六大学のスターだった岡田さんの1位指名が絶対でした。でも、ドラフト前になって阪神の関係者が「岡田、めちゃ競合しそうやから、ウチ、牛島に行ってもええかな」と、浪商に伝えてきたらしいんですよ。

 

二宮: 北陽の岡田より浪商の牛島や、と。
牛島 それを聞いて、いやいや勘弁してくださいよ、と。急に阪神の1位指名が牛島となったら、大阪で僕、悪者ですよ(笑)。まあ無事に阪神が岡田さんを指名し、くじも引き当てて良かったですけどね。

 

二宮: 入団当時、中日の投手陣は?
牛島 星野仙一さん(故人)がまだ現役でエースを務め、抑えは鈴木孝政さん。2つ年上の小松辰雄さんがちょうど活躍し始めたころでしたね。

 

二宮: 結構、個性の強い人たちばかりだったでしょう。
牛島 そうですね。僕は最初、生意気なやんちゃ坊主と見られていたみたいですけど、徐々に先輩たちとも打ち解けて、厳しさもありましたけど、楽しい思い出ばかりです。お酒が飲める年齢になったら、よく飲みにも連れていってもらいましたよ。

 

二宮: 1年目から1軍に定着しました。プロで学んだのはお酒だけじゃありませんね?
牛島 ルーキーのとき僕は2軍の遠征には帯同せず、1軍のバッティングピッチャーを務めていました。

 

二宮: 牛島さんのコントロールの良さが買われたんでしょうね。
牛島 正捕手の木俣達彦さんは僕のボールを受けて、「おお、ちょっと高いけど、ええバッティングピッチャーになれるぞ」って、褒めているんだかなんだか(笑)。それでチームのために試合前の練習で気持ちよく打ってもらいたいから、スーッと力を抜いて投げていたんですよ。そうするとバッターが打ち損じることが多くて、ベテラン選手は「変化した。まっすぐ投げろ」と文句を言うわけですよ。そうするとこっちも「変化してへんわい。クソッ」と力を入れて投げる。そうすると10球のうち8球はホームランを打たれる。あれ、なんでやろう、と。そこで考えたわけです。

 

 打撃投手で学んだこと

 

二宮: 力んだ分だけフォームが崩れていた?
牛島 そうなんです。力を入れて投げると左肩が早く開くんです。そうすると球の出どころが見やすくなって、パカーンと打たれてしまう。それで、さっきはどうやって投げていたのかなと思い出して、左肩を開かないように注意しながら、力まず投げると、またバッターが打ち損じる。それで力の入れ具合を身に付けましたね。

 

二宮: 1軍相手のバッティングピッチャーは良い勉強の場だったわけですね。
牛島 はい。あとフォークボールをシュート気味に投げると、右打者がイヤがるということも学びました。「これは打つと自打球になるからすごくイヤなボールだ」と、どの打者も言っていました。最初はフォークボールがそんなに落ちなかったから使えませんでしたが、3年目くらいから思い通りに落とせるようになってからは、シュートをかけたりいろいろ投げ分けてましたね。

 

二宮: まっすぐ落ちるフォークとシュート気味に落ちるフォーク、二種類を投げ分けていたんですね。そういえば、牛島さんはフォークの握りのために人差し指と中指の間の関節を広げたと……。
牛島 ええ。ここにボールがあるので試してみましょう。普通に挟むとこんなもんですけど、それをこうやってグリッっとすると、ほら。

二宮: へぇーっ、握りが深くなっていますよ!? これ、指は痛くないんですか?
牛島 全然、痛みはありません。プロに入って、指が短いからフォークもなかなか抜けなくて悩んでいたときに、ボールをグイグイッと押し込んでいたら、ある日、急に挟めるようになったんですよ。関節が外れたのか靭帯が伸びたのかはわからないんですけどね。

 

二宮: フォークの握りに関しては、指の股を切ったという都市伝説もあります。
牛島 僕も握りに悩んでいましたが、さすがに切るところまでは(笑)。

 

二宮: 甲子園のヒーローとしてプロ入りした牛島さん、覚醒したのは82年にリリーフに転向してからですね。
牛島 そうですね。その年は17セーブをあげてチームも優勝を飾り、さらに84年には自己最多の29セーブをマークしました。

 

二宮: 牛島さんがすごいのは驚くような速いボールはないのに三振をとり、そして抑えていたことです。高校時代と同じようにクレバーな投球でしたね。
牛島 スピードがない分、いろいろなボールをミックスして攻めていました。コントロールはまあまあ自信があったから、インコースを意識させてからアウトコースへ、とか。スピードがない分、甘くなると持っていかれますから、その点には気を使いました。

 

二宮: フィニッシュはフォークボール。
牛島 フォーク、フォークと言われていたんですが、意外とカーブが良かったんですよ。フォークの意識があるとバッターの視線は自然と低くなります。そこへ一度浮き上がってから落ちるカーブを投げると、すごく効果的でした。

 

二宮: 入団から7年間で50試合以上を投げたシーズンが3度あり、中日のリリーフとして大車輪の活躍でした。そんな牛島さんに86年オフ、トレード話が持ち上がります。ロッテの落合博満さんに対して、中日は牛島さん、上川誠二さん、平沼定晴さん、桑田茂さんの4人。1対4、世紀の大トレードと呼ばれました。牛島さんは寝耳に水だったでしょう。
牛島 オフで治療のために温泉に行っていたんですけど、そこに球団から電話があって「今すぐ戻ってきてくれ。トレードの話がある」と。それで名古屋に戻ったら記者会見の準備が進んでいて、あれ、僕は何も返事をしていないのになと疑問に思い、それで「ちょっと、おかしいんじゃないですか」と。そこから球団といろいろな話をしました。

 

二宮: 結局、2日後に返事をしますと……。
牛島 はい。プロ野球選手は球団にとって商品といえば商品なので、こういうことがあるのは理解できます。でも、生え抜きとしてずっとやってきた選手に対して、こんな扱いなのかというやりきれない気持ちもありました。その後、星野さんや僕を取ってくれたスカウトの法元英明さんと話をして、法元さんに「まだ25歳。まだまだユニホームを着ているところを見たいぞ」と言われ、「じゃあ、もういっちょ頑張ろうか」と。

 

 "パ高セ低"の背景

 

二宮: ロッテ行きを決めた記者会見の後、星野さんが名古屋駅のホームに見送りに来ましたね。
牛島 もう前日に散々、話をしていたので話すことはあまりないし、「お世話になりました」というのも照れくさい。それで「落合さんのお迎えですか?」と言ったら、「ばかたれがっ!」ってものすごく怒られました(笑)。

 

二宮: アハハハ。その光景が目に浮かびます。東京行きの車中はどんな思いでしたか?
牛島 抑えのエースというのはチームの何番目なんだろう、とずっと考えていました。ローテーションのエースが1番目としたら、そこから何番目なのかな、と。自分では絶対的な存在だと思っていたけど、全然だったんやな、とか。あのときはいろいろありましたけど、振り返ればいい勉強をさせてもらったと思っています。

 

二宮: ロッテに移籍した牛島さん、決意も新たに移籍1年目の87年に24セーブ、翌88年は25セーブ。ともにリーグ最多の成績を残しました。87年は最優秀救援投手のタイトルにも輝いています。
牛島 トレードでパ・リーグにいって全然、成績を残せずに「牛島、終わったな」と思われるのがイヤだったんですよ。それで最多セーブをマークして、最優秀救援投手のタイトルも取って、ひとまずホッとしました。それで移籍3年目の89年は有藤通世監督が「2年間リリーフやって精神的に疲れただろう。先発やるか?」と勧めてくれ、当時、28歳でラストチャンスと思って先発に回りました。

 

二宮: それで21試合に登板して12勝でした。抑えでも先発でも結果を残しましたね。
牛島 どっちでも良い結果を残せて良かったんですが、実はその年の10勝目で肩を痛めたんですよ。

 

二宮: ええっ! 試合中にですか。
牛島 はい。9月の釧路の試合だったと思いますが、血マメが潰れ、そこで無理して投げていたらやっちゃいました。

 

二宮: 結局、ロッテでは93年までプレーして、その年で現役を引退しました。セで7年、パでも7年プレーして一番の違いはなんでしたか?
牛島 やはりDH制の有無ですね。DH制があるとピッチャーは楽ですよ。

 

二宮: えっ、楽なんですか?
牛島 9番にピッチャーがいないから、ずっと緊張感を持って投げられるんですよ。変に気を抜くことがない。これが案外、楽でしたね。あとは打席に入らないので攻撃のサインを覚えなくていい。これも好都合でした。

 

二宮: ピッチャーも送りバントだなんだと、サインが出ますからね。
牛島 本当に覚えるサインが半分になったから、すごく楽でしたね。今、パ・リーグの方が交流戦で圧倒的に強い背景には、そういうこともあるのかもしれません。

 

二宮: さて、そろそろ『木挽BLUE』のボトルとお時間の方がなくなってきました。引退後は横浜(現DeNA)の監督として05年、06年と指揮を執りました。現役14年、指導者で2年過ごしたプロ野球生活で、一番美味しかったお酒は?
牛島 まず82年、中日時代のリーグ優勝のときですね。後にも先にも優勝はあのときだけなので、まさに"美酒"でした。

 

二宮: ビールかけは格別だと皆さんおっしゃいます。
牛島 確かにそうですが、僕にとっては05年オフ、監督1年目のシーズンを終えた夜に飲んだお酒は忘れられません。

 

二宮: 前年最下位のチームを3位まで引っ張り上げた手腕はお見事でした。
牛島 いえいえ、選手たちも目一杯頑張ってくれました。あのときに飲んだお酒は、達成感もあり、「ふぅ、終わった」という、まさに体に染み渡る美味しさでしたね。

 

二宮: では、またどこかのチームでそんなお酒を味わってくださいよ。
牛島 こればっかりはオファーがないとどうにもなりませんからね。また縁があったら、どこかでやってみたいですね。

 

二宮: では、未来の牛島監督に乾杯です。
牛島 ありがとうございます。ふぅ、喋りすぎた喉をクールダウンするのに、『木挽BLUE』のロックは最高です。喉だけじゃなく心も癒やしてくれますね。

 

<牛島和彦(うしじま・かずひこ)プロフィール>
1961年4月13日、大阪府出身。浪商高(現大体大浪商)のエースとして高2春(78年)、高3春と夏(79年)の計3回、甲子園に出場し、ドカベンこと香川伸行(故人)とのバッテリーで人気を集めた。高3春、準優勝。高3夏、ベスト4に進出も準決勝で池田高(徳島)に敗戦。79年秋、中日からドラフト1位指名を受けプロ入り。1年目から1軍に定着し、3年目の82年にリリーフ転向。17セーブでチームのリーグ優勝に貢献した。86年オフ、落合博満との1対4トレードでロッテに移籍。87年、24セーブをあげて最優秀救援投手に輝いた。89年は先発を務めキャリアハイの12勝をマーク。93年、現役引退。プロ通算53勝64敗126セーブ。2005年、06年には横浜(現DeNA)の監督を務め、05年はチームを3位に導いた。現在は野球解説者として活動中。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回、牛島さんと楽しんだお酒は芋焼酎「木挽BLUE(ブルー)」。宮崎の海 日向灘から採取した、雲海酒造独自の酵母【日向灘黒潮酵母】を使用し、宮崎・綾の日本有数の照葉樹林が生み出す清らかな水と南九州産の厳選された芋(黄金千貫)を原料に、綾蔵の熟練の蔵人達が丹精込めて造り上げました。芋焼酎なのにすっきりとしていて、ロックでも飲みやすい、爽やかな口当たりの本格芋焼酎です。

 

提供/雲海酒造株式会社

 

<対談協力>
高田屋 品川店
東京都港区港南2-6-3 品川シントミビルB1F
TEL. 050-5269-7612
営業時間:
ランチ
月~金 11時30分~15時(L.O.14時30分)
土 11時30分~14時30分(L.O.14時)
ディナー
月~木・土 17時~23時(L.O.22時 ドリンクL.O.22時20分)
金・祝前日 17時~23時30分(L.O.22時20分
ドリンクL.O.22時45分)
定休日: 日曜

 

☆プレゼント☆

 牛島和彦さんの直筆サインボールを「木挽BLUE」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はこちらのメールフォームより、件名と本文の最初に「牛島和彦さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、郵便番号、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)を明記し、このコーナーの感想をお書き添えの上、お送りください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は19年9月12日(木)。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。

 

◎クイズ◎

 今回、牛島和彦さんと楽しんだお酒の名前は?

 

 お酒は20歳になってから。

 お酒は楽しく適量を。

 飲酒運転は絶対にやめましょう。

 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。


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