岸川登俊(白寿生科学研究所人材開拓課)第83回「退団して初体験した子供たちの試合観戦」
皆様、お久しぶりです。2度目の登場、白寿生科学研究所の岸川です。梅雨が明けたかと思ったら連日の猛暑です。梅雨の間は気温が上がらず日照時間も短かったため、野菜の育ちの悪さや値段の高騰が気になっていました。皆様はいかがでしたでしょうか。
さて、前回のコラムでは、自己紹介と自分自身のセカンドキャリアについて書かせていただきました。今回は私がジャイアンツで16年間務めた打撃投手の仕事内容と、今までの私の職業ではありえなかった貴重な体験の話を書かせていただきます。
退職後のリフレッシュ
プロ野球の1年間のスケジュールはどういうものかご存知でしょうか?
まずプロ野球選手にとって正月とも言われる2月のキャンプインから始まり、3月のオープン戦、そして約半年間のペナントレースへと突入し、その後、上位3チームによるクライマックスシリーズ、そして日本シリーズとなります。これが皆様方の知っているプロ野球のスケジュールだと思いますが、クライマックスシリーズや日本シリーズに出場できなかったチームの場合はどうなのか。そのチームはシーズン終了後、ベテランや主力選手は1週間ほど休んだ後、秋季練習に入ります。また若手選手はNPB12球団、独立リーグの四国アイランドリーグ選抜、また韓国プロ野球チームなどが参加するフェニックスリーグに約1カ月参加します。その後に秋季キャンプです。
秋季キャンプはチームにもよりますが11月から約2~3週間ほど若手中心で行い、支配下登録されている選手はキャンプが終了するといわゆるオフに入ります。オフとは言っても、選手の名誉のために付け加えると、ほとんどの選手はしっかりと個別に練習しています。
11月下旬にはファン感謝祭や球団納会が行われ、支配下登録選手の契約更改が始まっている頃には、NPB12球団から選抜された若手選手主体の2チームがウインターリーグとして年末まで台湾へ行き、背番号3桁の育成選手たちはクリスマス近くまで練習をします。これがおおよそのスケジュールになります。
私が務めていた打撃投手の役割は、2月のキャンプから12月の育成選手の練習参加までの約11カ月の間、練習に付き添います。打者に向けて投げる球数は、年間およそ3万球でした。その後も年末年始から始まる選手の自主トレに練習パートナーとして参加する打撃投手もいます。シーズンは2月から11月までと思われていた方も多いと思いますが、ほぼ1年間、休みがないスケジュールで働いていたのです。その中で時間を探して、自分自身のトレーニングもしていました。
こうなるとプライベート、家族のために使う時間はほとんどありません。私には子どもが2人(長男と長女)いるのですが、プロ野球に在籍中は学校行事(授業参観や運動会など)や子供たちの部活の応援などは母親任せで、ほとんど参加したことがありません。
前回のコラムで書いたとおり、ジャイアンツの打撃投手に突如として定年制が採用されて、17年秋にチームを去ることになりました。この退団によってセカンドキャリアをスタートした私でしたが、職探しと同時に、時間ができたことで子供の部活の試合観戦や学校行事に参加してみたいと思うようになりました。
当時、息子は高校2年生で、彼の最後の夏の大会までの約半年間、その活動を見届けたいと思い、妻に相談しました。妻からは平日は就職活動と兄の仕事を手伝うという条件で了承してもらい、初めて土日に息子や娘の試合観戦に行きました。
野球を始めてから退団するまでの37年間、週末や祝日、そして大型連休もほとんど休むことがなかった私が週末になると子供たちの応援に駆け付けている。普通の家庭なら当たり前のことかもしれませんが、その当たり前がとても新鮮で、毎日が充実していました。
息子の試合を見ることが楽しくて、行ける所はどこにでも行きました。関東はもちろん名古屋にも遠征したことがあります。その間、勝ったり負けたり、打ったり抑えられたり。そして迎えた7月、夏の地方大会が始まりました。高校生活最後の夏、残念ながら予選敗退してしまいましたが、最後までやりとげた息子や同級生の成長する姿を見られたことはとてもうれしく思っています。
その後、就職活動の成果もあり、昨年秋に白寿生科学研究所に無事就職が決まりました。一昨年、ジャイアンツを退団してから過ごしてきた長すぎるリフレッシュ休暇は終わりましたが、私自身こんなにも時間を好きなことだけに使ったのは初めてでした。セカンドキャリアに向けて気持ちが切り替わったことは言うまでもありません。そして、それを許してくれた妻にも感謝です。
さて、今回のコラムはいかがでしたでしょうか。これからも自ら体験してきたことをいかして、コラムを書いていこうと思っています。では、また次回、よろしくお願いします。
<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。