皆さん、この夏はどのようにお過ごしになられたでしょうか? 猛暑、そして連日の酷暑……。私にとって酷暑の毎日はとても身体にこたえる厳しいものでした。


 さて、8月22日に夏の甲子園決勝が行われ、履正社(大阪)が星稜(石川)を破り、初優勝を果たしました。

 

 まだ記憶に新しい昨年の100回記念大会は我が地元秋田から吉田輝星投手を中心に金足農が躍進、準優勝を成し遂げフィーバーをもたらしました。今年はどのチーム、どの選手が甲子園を賑すのか注目していましたが、自分の目から見て、ひときわ輝いていたのは、星稜の奥川恭伸投手でした。高校生としてここ最近では一番じゃないかと思えるほどのポテンシャルを見せてくれました。

 

 150キロ前後の速球をコーナーへ投げ分け、決め球でもある鋭いスライダーもきっちりとコントロールする技術。他にも間合いの取り方やフィールディングなども素晴らしいものです。投手として備えておかなければならない要素を全て持ち合わせており、さらに高校生らしいハツラツとした姿勢や常に笑顔を絶やさないところなど、彼に魅力を感じずにはいられませんでした。夏の大会を決勝まで駆け上がったのも、彼が普段の投球をすれば出せる必然的な結果だったのかもしれませんね。

 

 奥川君擁する星稜が勝ち進んでいくにつれ、私はある高校を思い浮かべずにはいられませんでした。それは皆さんも注目されていた大船渡(岩手)です。大船渡には高校野球最速の163キロを記録し、今年のドラフトでは複数球団の1位指名が有力視されている佐々木朗希投手がおり、その佐々木君を中心としたチーム力で岩手県大会を勝ち上がりました。そしてあと1勝で甲子園出場というところまでいきましたが、決勝では大谷翔平や菊池雄星を輩出した花巻東に2対12で敗れてしまいました。

 

 その決勝戦、佐々木君の登板はありませんでした。彼は星稜・奥川君の活躍をどのように見ていたのか、個人的にとても気になります。

 

 石川県大会を投げ抜き優勝。甲子園でも自らの力投でチームを決勝に導き、その決勝戦でも最後まで投げ抜いた奥川君に対し、「この大船渡のメンバーと一緒に甲子園に行きたい!」と1年生当時から口にし、3年夏に県大会決勝まで駒を進めたのにも関わらず、登板しなかった佐々木君。私は星稜と大船渡、チームの特徴が似ていると感じ、それぞれを注目していましたが、大船渡の決勝戦の結果については非常に残念であり、疑問が残る試合にもなりました。

 

 佐々木君の決勝戦登板回避について監督は「様々な事を考慮し、彼を登板させないと決めた」と話していましたが、当の本人はどう思ったのか。また本人と話し、その上で登板しないと決めたのか。チームとして納得しメンバーを決めたのかなど、自分が考えても仕方ありませんが、いろいろと考えてしまいました。

 

 私の意見としては、佐々木君以外の夏のメンバー19名が決勝戦の起用について納得したのかどうなのか。そして敗戦したがそこから得られたことがあったのか。その点が気がかりです。

 

 佐々木君のポテンシャルを考えれば当然この先も野球を続け、プロ野球やメジャーリーグで大活躍するような逸材です。その他の3年生については野球を続ける者が少ないと聞いています。佐々木君が投げたから甲子園に絶対行けたかと言われたら、それはやってみないとわからないので、簡単には言えません。でも、甲子園出場というのは人生において大きな経験、財産になったと思います。大船渡市民も久々の甲子園出場に心を躍らせていたのではないでしょうか……。

 

 先日、2011年の東日本大震災後、毎年行われている大船渡市での野球教室に参加しました。これは上司から声をかけられて去年から参加しているもので、今年も大船渡で野球を頑張っている子供たちに向け、一緒に汗を流しながら指導を行いました。そこで子供達に「佐々木君、決勝戦で投げて欲しかった?」と問い掛けると、ほとんどの子供が「投げて欲しかった」と話していました。そんな声を聞いてしまうとますます、モヤモヤした気持ちが増してしまい、当事者はこちらが計り知れないくらいの心境になっているはずです。過ぎたことですし、これ以上何を言っても仕方がありませんが、私は佐々木君に投げて欲しかったと今でも思っています。

 

 この件もあってか、高校野球も球数制限や開催日程の見直しなど、様々な改善策が取り沙汰されています。日本独特の環境下で野球の歴史が作られてきましたが、古き良きものを残しながら新しい考えを導入し、より良い形を見出だし、指導者や野球に関わる大人たちがもっと成長し、これからも日本人全員に愛される高校野球をつくり上げて欲しいと切に願っています。

 

 自分も子供たちを教える機会が多いので、過去に捉われず、常に学びを忘れず、彼ら未来のために何が出来るかを考え、日々前進して参りたいと思います!

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


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