2日、急性肺炎のため死去した作家の安部譲二さんとは、プロ野球や競馬、ボクシングをテーマに何度かお話する機会があったが、いつ会っても、その引き出しの多さと話の面白さに圧倒されたものである。しかも、ドスの利いた独特の口調でたたみかけてくるのだ。値踏みをするようにギラリとこちらをにらんだかと思うと、次の瞬間には人懐こい笑みを向ける。その筋の人特有の凄味と愛嬌と人間味が、万華鏡の中の光の波のように幾重にも連なり合い、独特のオーラを発していた。

 

 プロ野球では駒沢球場を本拠地にしていた頃の東映がお気に入りだった。「西鉄にいた下手投げの武末悉昌。あれにな、“このどじょうすくい野郎、悔しかったら、上から投げてみろ!”とヤジったんだ。すると、オレの方を向き、指を1本立てたんだ。そして本当に1球だけ上から投げやがった。あれがパ・リーグの野球なんだよ」

 

 パ・リーグ、とりわけ東映へのオマージュについて、安部さんはこう述べている。<私がパ・リーグを嫌いなはずがありません。なにしろ、私とパは同根の者、同じ日陰者の間柄だったのですから。><審判をぶん殴って、無期限出場停止を食らった山本八郎。前から歩いてきたら、思わず御辞儀をしてしまいそうな土橋正幸と、それは“塀の中のプロ野球”と口走りそうな面々が踊る、暴れん坊野球でした。>(『全日本パ・リーグ党宣言 角川書店』)

 

 東映の後身にあたる日本ハムについても、その動向をたえず気にしておられた。元スカウトの三沢今朝治の元に、「一度お会いしたい」と誘いがきたのは1980年代後半のことである。「どのようにして松浦宏明を獲ったか教えて欲しい」

 

 松浦は88年、15勝をあげ、同僚の西崎幸広、西武の渡辺久信とともに最多勝に輝いた。2人がドラフト1位のエリートに対し、松浦はドラフト外入団の無印選手である。三沢は答えた。「実は他の選手を調査に行ったんですが、予定よりも早く球場に着いてしまった。そこで投げていたのが船橋法典という無名校の松浦。センスを感じる身のこなし、球離れのよさ、球持ちの長さ。全てに惚れてしまったんです」。黙って聞いていた安部さん、別れ際に「あなたへのせめてもの賞です」と言って東急ハンズの商品券を、そっと手渡したという。粋な無頼派がまたひとりいなくなった。合掌。

 

<この原稿は19年9月11日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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