取材相手との距離の取り方は、難しい。相手との一定の信頼関係がなければ、深い話を聞くことはできないものだ。
ナベツネこと、渡邊恒雄は『渡邊恒雄回顧録』の中でこう書く――。
<僕は、新聞記者というものは権力の内部に入り政治権力がいかなるもので、どういうふうに動くのか知らなければならないと思うんだ。中に入らなければ事実は書けない。外から見ていても、書けるものじゃないんだ>
これはひとつの真実を突いている。
さりとて近づき過ぎれば、情が移り筆が鈍る、あるいは相手にとって都合のいいことだけを書くようになってしまう。
大切なのは被取材者との緊張ある信頼関係をいかに保つか、である。
スポーツの世界において、両者の関係は曖昧であり続けてきた。そもそもスポーツジャーナリズム(ライティング)は、アメリカのメジャーリーグ球団の番記者に始まっていると言われている。つまり球団にとって新聞は観客を集めるための宣伝媒体だった。そのため、記者は身内のようなもので、選手たちと一緒にポーカーをしながら列車で移動する仲間であった。
サッカーも同じだ。
幼年時代のジーコをCRフラメンゴに紹介したのは、ラジオレポーターだった。地元の才能ある少年を埋もれさせたくない、そして自分の好きなフラメンゴの助けになりたいという、2つの思いがあったはずだ。さらには、フラメンゴに貸しを作って、取材の便宜を図ってもらうという下心もあったかもしれない。
ぼくは90年代半ばから定期的に、ブラジルの他、パラグアイなどの南米を訪れている。今と違い、かつては選手との距離が近かった。グラウンドで練習を見ているとサッカー選手から声を掛けられることもあった。彼らの要求は直截的だった。日本のクラブを紹介してくれないかというのだ。
当時のJリーグは世界の中でも高年俸だった。加えて、南米と違って確実に給料が支払われることが魅力的だったのだ。もちろん、ぼくはそんなことはできないと苦笑いして断った。
ぼく自身、大した選手ではなかったが、子どもの頃からボールを蹴ってきた人間である。自分の目利きで燻っている選手に花開かせてあげたいという気持ちがなかったといったら嘘になる。しかし、ぼくは取材者である。一線を越えてはならないという意識が常にあった。
また、選手の移籍では、そこに関わる人間の糸がもつれることもしばしばである。その中に足を踏み入れる気にもならなかった。
ただし――。
結果として、ある選手の人生に深く関わってしまったことがある。もちろん金銭に関わることではない。ただ、分岐点に立っていた彼らの背中を強く押してしまったという意味だ。
フットサルで際立っていた青年は……
そのひとりが元ジェフユナイテッド市原の要田勇一である。イビチャ・オシムが監督を務めていた時代、日本でもっとも良質のサッカーをしていたジェフユナイテッド市原のフォワードだ。
要田との出会いは2001年5月に遡る――。
当時、ぼくは『スポーツナビ』というサイトで連載を持っていた。連載を始めたのは、スポーツナビを立ち上げた広瀬一郎との関係だった。
拙著『W杯に群がる男』の冒頭で書いたように、ぼくはFIFA会長だったジョアン・アベランジェに接触している。このとき、日本と韓国が2002年ワールドカップ開催を巡って激しく招致合戦を繰り広げていた。その鍵を握るのが、FIFAを仕切っていたアベランジェだった。そのアベランジェには日本の報道機関はどこも接触できていなかった。95年1月、ジーコの取材でリオ・デ・ジャネイロにいたぼくはたまたま、彼を捕まえることができた。なぜ、アベランジェがぼくの取材を受けたのか、については『W杯に群がる男』に書いた通りだ。
アベランジェはぼくの取材を受けたことを、日本の招致委員会に伝えた。すると、招致委員会の人間が取材データを見せろと電話してきた。ぼくは「貴方たちの意向を受けて取材をしたのではない、見せる必要はない」と突っぱねた。いきなり電話をしてきた上に、招致委員会まで来いという、相手の横柄な態度にも頭に来ていたのだ。
それが広瀬だった。
広瀬との付き合いは続き、彼が電通を退社する前後には頻繁に会って話をした。スポーツナビの立ち上げの前、そしてその後もしばしば意見も求められた。彼が勤務していた電通という会社の癖かもしれないが上から目線過ぎる、あるいは人に読ませるということを分かっていない、とぼくは酷評した。一度は銀座のバーで口論になった。しかし、彼が敵うはずもなかった。悔しかったと思う。その後、広瀬はぼくに記事のタイトルをつけてくれないかと頼んできたこともあった。タイトルは内容と深く関わっている。タイトルだけをつけることはできないと断った。
スポーツナビは電通や大手商社の支援を受けていたが、コンテンツ――原稿作成についてはほぼ素人の集まりだった。その意味で、広瀬はぼくに中に入って欲しかったのかもしれない。たたし、ぼくは出版社を辞めた直後だった。再び組織の中に入る気はなかった。自分の作品を作ることしか頭になかったのだ。
その代わり、ではないのだが、ぼくはスポーツナビで連載を始めることにした。そして、広瀬から誘われて、スポーツナビのスタッフたちのフットサルにも広瀬と一緒に参加するようになった。
要田勇一の弟、章と知り合ったのはそんなフットサルのひとつだった。
スポーツナビにはインターンと称した大学生たちが沢山いた。そうした人間たちを適当に組み分けして、チームを作ってゲームをする。よくあるフットサルのやり方である。あるとき、一緒のチームに、動き出すといい場所にパスをくれる若い男の子がいた。サッカーでは足技の巧みさ、あるいは敏捷性に目が行きがちではあるが、もっとも大切なのは敵味方の位置を俯瞰的に把握する能力である。それが分かれば自分がシュートを打つ、あるいはドリブルで進むのか、味方にボールを渡すのかという判断ができる。その男は周りの水準を考慮して、力を抑えているのは分かった。控えめにしていても、その能力は際立っていた。
フットサルの後、居酒屋に行くことになった。そこで、章が立教大学のサッカー部のキャプテンであることを知った。この日は、スポーツナビでアルバイトをしている友人から誘われて、やってきたのだという。
章はこう言った。
「うちの兄貴が横浜FCにいるんですけれど、クビになりそうなんです。一度、相談に乗ってもらえませんか」
こうして要田兄弟との付き合いが始まることになった。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com
◎バックナンバーはこちらから