要田勇一と初めて会ったのは、2001年5月末のことだ。要田の弟・章と知り合った翌週のことだった。

 

 要田兄弟、そして章の大学の友人たちと新宿で食事をしながら軽く飲むことになった。要田は175センチほどで細身、俊敏なフォワードらしい、しなやかな身のこなしの男だった。短く刈り込んだ黒々とした髪の毛と、彫りの深い顔つき、大きな目が印象的だった。ただ、自信を失っているのか、俯きがちだった。

 

 前年の2000年から要田は横浜FCに所属していた。この年、横浜FCは当時、3部リーグ相当の日本サッカーリーグ(JFL)で2年連続優勝し、Jリーグ加盟を認められた。そして2001年からJ2に昇格していた。要田はその中で背番号10を付けていたのだが、最近は出場機会が少ないと自嘲気味に笑った。

 

 2001年シーズンから、それまで監督を務めていた元ドイツ代表のピエール・リトバルスキーがバイエル・レバークーゼンのコーチ就任に伴って退任。代わりに永井良和が監督となっていた。リトバルスキーには目を掛けられていたが、永井とは距離があった。

 

「(頭を)モヒカンにしたら、全然使ってもらえなくなってしまったんです。そして剃ったらまた使ってもらえるようになった。原因はこれだったんですかね」

 

 要田は自分の頭を掌で撫でた。髪型はサッカーに関係ないではないかと不満のようだった。

 

 ぼくは週刊誌編集部にいたとき、永井に取材している。永井は浦和南高校から古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)に進んだフォワードだ。漫画『赤き血のイレブン』の主人公のモデルとしても知られている。早くから日本代表にも選出され、多くの国際試合に出場、2012年には日本サッカー殿堂入りした。

 

 ぼくは小学生のとき、市の選抜として古河電工対東洋工業(現・サンフレッチェ広島)の前座試合に出場したことがある。試合が終わった後、永井からマスコットボールにサインをして貰った。その話をすると永井はにっこりと微笑んだ。

 

 穏やかな口調で訥々と、しかし熱を込めて話す、芯の強そうな男だった。永井は会社員として勤務しながら、サッカー人気が低迷していた時代を過ごしてきた男である。満足な結果を残していない若手選手が奇抜な髪型にしてきたことに顔を顰めたことは容易に想像できた。

 

 要田はプロリーグであるJリーグの華やかさに引きつけられてプロ入りした世代である。永井の功績はほとんど知らない。いや、興味がない。2人が噛み合わないのは当然だったろう。

 

 一度、横浜FCの試合を観に行くよ、と約束したが、しばらくは無理だった。ぼくは元ジェフユナイテッド市原の廣山望を追って、パラグアイへ行くことになっていたのだ。折角、地球の裏側まで行くのだ、経由地となるブラジルを含めて3週間程度、南米大陸に滞在するつもりだった。

 

 帰国した翌日の6月29日、時差の違いでぼんやりとした頭で、ぼくは川崎市の等々力競技場に向かった。川崎フロンターレ対横浜FCの試合だった。要田は後半31分にフォワードの有馬賢二と代わってピッチに入った。

 

 試合は横浜FCが先制したが、フロンターレのエメルソンのゴールで同点。終了間際、箕輪義信に得点を許し、1対2で敗れた。横浜FCは中盤でパスを全く繋ぐことができず、前線までボールが届かない。途中出場の要田も、すっかり埋もれていた。このままだと今季でクビになると思いますと、首を振っていた要田の顔が頭に浮かんだ。ただ、自分が彼に何をできるのだろうとも思っていた――。

 

 弟がきっかけでサッカーを始めた

 

 要田勇一は1977年6月25日に尼崎で生まれた。サッカーを本格的に始めたのは10歳のときだった。学年で1つ下にあたる、弟の章が小田スポーツ少年団に入るというので付いて行くことにしたのだ。兄の背中を追って、弟が同じ競技を始めるというのが多い。要田兄弟の場合は逆だった。

 

 要田はこう振り返る。

「(チームメイトの)お父さんがコーチをしているようなチームで弱かったです。大会に出たら、1回戦か2回戦で負けるようなチームです。ただ弱かったから、すぐに(弟の章と)2人とも試合に出られたんです。(小学)4、5(年生)のときは全く弱かった。ぼくが6年生になったとき、ようやく(市内の)強豪チームに勝つぐらいになりました。あのとき、尼崎には強豪チームがたくさんあって、勝つのが大変だったんです」

 

 ポジションはフォワード、そして中盤。PKのときはキーパーを務めることもあった。レベルの低いチームにありがちであるが、キーパーが頼りなかったからだ。

 

 近隣で強豪とされていたのは、同じ年の江口倫司のいた西宮少年サッカークラブ(西宮SC)だった。

 

「西宮SCとは対戦したことなかったですけれど、同じ会場になることがあったりして試合は観ていました。(尼崎市、兵庫県を勝ち抜き)全国でも上の方に行っていたんじゃないですかね」

 

 後に江口は関西学院高校から関西学院大学に進み、ヴィッセル神戸、アビスパ福岡でプレーするフォワードである。

 

 要田はサッカーの他、野球、地元のソフトボールチームで大会に出ることもあった。章によると「兄貴は勉強はアレでしたけれど、運動は何をやらせても凄かった。野球も上手かった。あのままやっていたらいいところまで行ったんじゃないですか」という。

 

 小学6年生のとき、要田は兵庫県のトレセン――ナショナルトレーニングセンター制度に基づいた地域選抜に呼ばれている。中学校に進むときには、近くの強豪クラブチームからも誘いを受けたという。しかし、家から遠いと断った。そして地元の小園中学に進み、サッカー部に入った。

 

 この頃、日本サッカーが大きく変わりつつあった。要田が中学に入学した90年の6月、三浦知良がブラジルのサントスの一員として凱旋帰国している。そして7月末、読売クラブ入団を発表した。

 

 日本サッカーがプロ化に向けて突き進んでいたのだ。 

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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