12月、プロ野球界は主力選手の契約更改の話題でもちきりでした。アップorダウン、悲喜こもごものドラマがそこにはあります。

 

 今季、開幕直前に育成選手から支配下登録された周東佑京選手(福岡ソフトバンク)は、600万円(金額は推定・以下同)から1400万円増の2000万円でサインしました。チーム最多の25盗塁をマークし、ポストシーズンでも代走の切り札として活躍。また侍ジャパンの一員としてプレミア12にも出場しました。スーパーラウンド第1戦のオーストラリア戦、2つの盗塁から本塁生還を果たし、逆転勝ちの口火を切りました。日本一と"世界一"への貢献で3.3倍増を勝ち取ったのです。

 

 それにしてもソフトバンクは育成上がりの選手が活躍します。周東選手の他、お化けフォークで知られるエース千賀滉大投手、甲斐キャノンでおなじみの甲斐拓也捕手などです。なぜ、ソフトバンクの育成選手は成功するのか? チームメイトの松田宣浩選手がこう教えてくれました。
「彼らは一芸に秀でていたからでしょう。周東なら足、千賀はフォーク、甲斐は強肩。Aがいっぱいではなく、ひとつ特Aを持っていたということです。監督もこういう選手の方が使いやすいんでしょう。さらにその起用に応えた彼らも大したものです」

 

 プロ野球の歴史を振り返れば、「特A」のオンリーワンを持つ選手が何人もいました。彼らは「スペシャリスト」と呼ばれ、ここぞという場面で起用され、チームの勝利に貢献したのです。そんな「スペシャリスト」のひとりとして思い出すのが元近鉄の藤瀬史朗さんです。藤瀬さんはテストを受けてのドラフト外入団、今でいえば育成上がりも同然でした。

 

 76年にプロ入りし、79年には代走だけで25盗塁を決め、近鉄のリーグ初制覇に貢献しました。この年の代走盗塁成功率9割2分6厘。その速さと、正確さから「近鉄特急」と呼ばれました。

 

 藤瀬さんは振り返ります。
「教員試験に落ちて、たまたま見たスポーツ新聞の近鉄の広告で入団テストを知ったんです。受かれば儲けもの、くらいの気持ちで受験したら合格。でも、入ってみて驚きましたよ。周りは体もごつくて大きい選手ばかり。こっちは足は速いといっても167センチと小柄ですから、"こりゃ、えらいとこに来たぞ"と面食らいました」

 

 2軍の試合で走りまくっていた藤瀬さんの韋駄天ぶりに目をつけたのが、当時の近鉄監督・西本幸雄さんです。プロ入り2年目の77年7月、ついに1軍デビューを果たしました。当然、代走での起用です。

 

「いきなり初球から"走れ"のサインですよ。"えー、どうするんや"と思いましたけど、パワーのない私が生き残るには足しかない。代走という立場を受け入れたわけじゃないんですが、生きる道として足しかなかった。もう覚悟を決めましたよ。ピッチャーがピクッと動いた瞬間には、もうスタートを切っていました」

 

 その後、西本監督は藤瀬さんは1点を争う場面で必ず起用しました。執拗な牽制など徹底マークの下、藤瀬さんは走りまくりました。ただ、ひとりだけ走れない投手がいたといいます。

 

「一番、イヤだった投手は東尾修さん(ライオンズ)。牽制もうまいし、駆け引きに長けていました。ボークスレスレに肩を入れてきたり、そのあたりが本当に老練でした。強い牽制球をひとつでももらうと、こっちも動かれへんのです。だから東尾さん相手には単独スチールは決めてませんよ。進塁したのは送りバントやエンドランだけ。本当にやりにくいピッチャーでした」

 

--キャッチャーで強敵は?
「キャッチャーの肩は気にしませんでした。それよりもピッチャーとの一対一の対決ですよ。警戒されている中でバンッとスタートを決めたら、ほとんどセーフでした。投手のクセも盗みましたけど、あまりクセに頼りすぎると逆に利用されて誘い出されることもあった。だから本当にピッチャーの雰囲気を感じ取る、自分のセンサーを信じてスタートしていましたね」

 

 さて、往年の足のスペシャリスト藤瀬さんの目に周東選手はどう映っているのでしょうか。
「周東君はホークス、昔なら南海ですから"南海特急"ですかね(笑)。彼も足のスペシャリストと言われてますけど、でも、それに満足はしていないでしょう。僕も出番は代走ばかりでしたが、そこで満足したことはなかった。役目は全うするけど、でも常に目標はレギュラーをとることでした。なかなかその壁は分厚かったですけどね。周東君も俊足で注目されていますが、この後、レギュラーポジションをつかみ、もっと大きくなってほしいですね」

 

 オンリーワンの武器を引っさげ、これから大きく加速する"周東特急"に注目です。

 

 

(文/SC編集部・西崎)


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