大学入学時は、野球部に入ろうとは思っていなかったという田中英祐。その彼が、なぜ京大野球部の連敗を止める立役者となり、そしてプロの道を切り拓くこととなったのか――。そこには「中学受験」、そして大学2年春の「京大連敗ストップ」という2つの転機があったという。「京大初のプロ野球選手」誕生の裏側に迫った。
 最初の転機は中学受験

―― 子どもの頃はプロ野球選手を目指していたのでしょうか?
田中: 小学校の時から自分がプロになれるとは思っていませんでした。周りには僕よりも巧い選手がいましたから。それに中学受験をした時点で、そういう道からは外れていることに気づいていましたからね。

―― 今振り返ると、何がプロ入りにつながったと思いますか?
田中: 最初のきっかけは、中学受験をして、野球が強くない学校に行ったことかなと。そこでピッチャーをやり始めなかったら、ピッチャーとしての自分の人生はなかったと思うんです。もし、強豪校に行っていたら、ピッチャーはやっていなかったでしょうね。おそらく外野を守っていたと思います。

―― 小学校の時、ピッチャ―経験は?
田中: やりたかったんですけど、コントロールが悪くてやらせてもらえなかったんです。肩だけは強かったのでキャッチャーをやっていましたが、いいキャッチャーとは言えなかったですね。

―― 中学でピッチャーに転向したきっかけは?
田中: 監督に「できるか?」と言われたので、「はい、できます」と。僕のピッチャー人生はそこから始まりました。中学の時にピッチャーをやっていなかったら、プロに行くなんてことはなかったと思います。

 京大野球部を変えた1勝

―― 大学2年春には、関西学院大相手に完封し、京大の連敗を60で止めました。
田中: あの勝利は大きな転機になりましたね。それまで京大野球部が勝てるなんて、誰も思っていなかった。メディアに取り上げられるのは、いつも連敗のことで、「いつまで続くねん」という感じで見られていました。そんな中で、とにかく自分のやるべきことをひとつひとつ丁寧にやり続けました。その積み重ねの結果として、あの試合があったと思っています。1勝したことで、僕だけでなく、京大野球部のすべてが変わった感じがしました。「やれば勝てるんや」という自信がみんなに芽生えたんです。僕自身も「やるべきことをやったら、このリーグでも抑えられるし、勝てるんや」という自信をもつことができました。実際、勝てるようになりましたしね。あの1勝がなければ、チームも変われなかったと思いますし、僕もこれほどまでに注目されていなかったと思います。「弱い野球部にいる、ちょっといいピッチャー」止まりだったかなと。

―― この4年間でどういう部分に磨きをかけてきましたか?
田中: フォームに関しても、フィジカル的なことに関しても、何が足りないのか、何が弱いのか、いろいろな人にアドバイスを求めて、それをもとに取り組んできました。社会人の練習に参加した時には自分から「どういうところが足りないですか?」「自分のピッチングを見て、どう感じましたか?」とアドバイスを求めるようにしていました。

―― 実際にどんなアドバイスを受けたのでしょうか?
田中: ピッチングの中の動きとして股関節の可動域や強さをつけるトレーニングを行ないました。股関節に関しては、自分でもできていないことはわかっていたので、4年の1年間で取り組んできたひとつです。実際、股関節の強化や柔軟性によって、平均の球速が上がったり、試合の中での修正能力が上がったと感じています。

―― 投げ終わった後に、帽子が落ちる場面がよく見られます。
田中: 自分でも「何で帽子が落ちるのかな」と思っていろいろと調べてみたら、ピッチングのメカニズム的には「頚反射」を使っていると。ただ、帽子が落ちるのはいいのですが、頚反射によって、右肩が引っ張られて負担が大きいことが課題でした。回転軸がとりにくくなって、力は出るけれども、ブレるんです。だから今は、球質は変えずに、右肩への負担を小さくするための対策として左股関節の追い込みを意識しています。結局は、これも可動域とか強さにつながるのですが、踏み込んだ時に股関節の最後の追い込みがあれば、あまり右肩に負担をかけずにビュッと球を放ることができるんです。

―― 大学4年間で印象に残っている試合は?
田中: 嬉しかった試合で言えば、やはり連敗を止めた試合ですね。逆に悔しかったのは、その連敗を止めた試合の数試合前の関西大戦です。その試合、1点リードで9回に僕がリリーフしたんです。先頭バッターは三振に抑えたのですが、次のバッターが僕がちょっと苦手としていたバッターで、変化球が2球続けてボールになったんです。雨も降っていて、真っ直ぐしかストライクを取れる球がなかったので、真っ直ぐを置きにいきました。そしたらセンターオーバーのスリーベースを打たれてしまった。さらに代打で出てきたバッターにライト前に運ばれて同点に追いつかれてしまったんです。そこで僕は降板させられました。あれは悔しかったです。

―― その試合での一番の反省は?
田中: 結局、カウントを悪くして真っ直ぐでいったら、打たれますよね。タイムリーを打たれたのも、変化球から入っていたら打たれていなかったと思うんです。そう考えると、やっぱり変化球って大事なんやなぁ、と思いました。それからです、変化球を本気で練習し始めたのは。それまでは「いい真っ直ぐを投げたい」ということばかりを考えていて、変化球に関しては「曲がればいい」という感じでした。例えば、0−2とカウントを悪くした時に、スライダーやカーブでカウントをとれるか、というようなところまでは考えていなかったんです。その試合以降は、そういうことも考えながら変化球を織り交ぜたピッチングを意識するようになりました。その結果が、あの連敗阻止の試合につながったんです。

 “同じ野球”を感じた阪神との交流戦

―― 大学入学時には野球部に入ろうとは思っていなかったようですね。
田中: そうですね。絶対に野球部に入るという感じで京大に入ったわけではなく、正直、大学で野球をするとはまったく考えていなかったんです。それでも、やっぱり野球がやりたいと思って入部して、続けていたら、ここまで来れたという感じです。

―― 野球部に入るきっかけは?
田中: 野球部の練習会で初めて会った同級生たちの熱意がすごかったんです。「ほんまに勝ちたいんや」と。その彼らが僕のことを必要としてくれたので、入ろうと決めました。入ってみると、ほとんどの選手が野球にかけていて、大学生活の中心が野球という感じでした。

―― 京大野球部に入って、何か変化はありましたか?
田中: 自分に役割が与えられたので、それをこなしていこうという気持ちで練習に取り組んでいました。そうしているうちに、どんどん自分が必要とされている度合いが大きくなっていったんです。それに応えようと続けてきた結果、今に至っているという感じですね。

―― いつからプロを意識するようになりましたか?
田中: 3年の12月頃からプロのスカウトの方が見に来てくれるようなって、それくらいから「もしかしたらプロに行けるんじゃないか」と思うようになりました。本気でプロに行こうと思ったのは、4年の8月です。

―― 志望届を出す決め手となったのは?
田中: いつかは決めなければいけないと思っていて、4年の春のリーグ戦が終わった後、いろいろと考えました。そこで「やっぱり野球がやりたいな」と思ったんです。

―― 8月には阪神二軍との交流戦がありました。何か手応えはありましたか?
田中: その頃には既に志望届を出すことはほぼ決めていました。ただ、その試合が最後の一押しをしてくれたかなと思いますね。それまで僕の中ではプロ野球と、今自分がやっている野球とがつながっていなくて、かけ離れたまったく違うものとしてとらえていたんです。でも、実際にNPBのチームと対戦をしてみて、「あ、やっていることは変わらないんだな。同じ野球なんだ。だったらプロに行っても、これまで通り野球をやって、それで活躍さえすればいいんだな」というふうに思えたんです。結果うんぬんというよりも、そのことが自分にはとても大きかったですね。

―― ピッチングの内容としては7回7安打6失点。3回1死以降は無安打に抑えました。
田中: 試合前は「この試合が終わらないようだったらプロは諦めよう」と思っていました。例えば1回に20点くらい取られるようだったら、志望届を出すのはやめようと。実際、3回以降は真っ直ぐ主体から変化球主体に変えたことで狙い球を外し、なんとか普通に抑えられた場面もあったので、「これはいくしかないな」と。序盤に打たれたのも、考えてみたら、相手とすればはじめは真っ直ぐを狙ってくるはずで、そこに真っ直ぐを投げたら打たれるやろうなと。チームメイトからも「いつも通り投げていたら、抑えられていたやろな」と言われました。なので、その試合は反省材料にしたというよりは、得たものの方が大きかったです。

 指名の前後で変化した“京大初”への意識

―― ドラフトで名前を呼ばれた時の気持ちは?
田中: 一番はホッとしたというのがありました。「もし指名がなかったらどうしよう」という不安もありましたから。

―― プロか就職か、社会人への道はなく、二択だったようですね。
田中: 早い段階でプロで野球を突き詰めるのか、それ以外の道で頑張っていくかの二択に絞っていました。既に就職が決まっていましたので、そこで社会人野球という選択肢は自分にはなかったんです。

―― 球団からはどんな期待をされていると思いますか?
田中: 戦力として見ていただいての指名だと思っています。スカウトの方から言っていただいたのは、真っ直ぐの速さを評価していると。実際にプロでどこまで通用するかはわかりませんが、自分のいいところを伸ばして、期待に応えたいと思います。

―― 「京大初のプロ野球選手」ということをどうとらえていますか?
田中: 指名される前と今とでは、僕の心境は少し変わりました。指名される前は、自分の職業選択のひとつとして、野球がやりたいという気持ちと、京大初ということで自分が注目されることによって、後輩に新たな道を切り拓くことができたらという使命感を感じていました。でも、指名後はプロ野球選手になったわけですから、自分がいかに活躍するかということが一番大事であって、これに関しては京大出身というのはまったく関係ない。だから今は京大ということを度外視して、厳しい競争の中でどうやって野球がうまくなるかといことだけを考えています。

―― 世間から「京大初」と注目されていることに関しては?
田中: もちろん、気にはなりますよ。でも、野球をやっている時はやるべきことをやるだけなので、特に問題ありません。世間からそういうふうに注目されていることに関しては仕方ないと思っています。逆に僕が普通の京大生だったとしたら、「京大初のプロ野球選手」と言われたら「すごいな」と思いますし、やっぱり見たくなると思うんです。だから、それはそれでいいと思っています。でも、野球選手としての自分は、そんなことを意識せずに、やるべきことをやっていくだけだと思っています。

田中英祐(たなか・えいすけ)
1992年4月2日、兵庫県生まれ。学校時代は捕手、中学で投手に転向した。白陵高では1年秋からエースとなるも、公式戦勝利は2年夏の1勝のみ。京都大工学部に現役合格し、1年春からリーグ戦に登板。2年春には関西学院大戦で完封し、同大の連敗を60で阻止した。3年秋は0勝4敗ながら、防御率1.06でベストナインを受賞。4年春は自己最多の3勝を挙げるなど、京大の投手としては新リーグ結成以降、最多の通算8勝(31敗)をマークした。180センチ、75キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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