11月に行われた第2回プレミア12で侍ジャパンは主要な世界大会では2009年の第2回WBC以来、10年ぶりに世界の頂点に立った。

 

 

 胴上げされる稲葉篤紀監督の目は涙でうるんでいた。

 

 無理もない。4年前に行われた第1回プレミア12、稲葉は小久保ジャパンの打撃コーチだった。準決勝の韓国戦、小久保裕紀監督の継投が後手後手に回り、逆転負けを喫してしまったのだ。

 

「継投云々より、それまでに1点でも多く取れなかったのか……」

 と言って唇を噛む稲葉の姿が忘れられない。

 

 その小久保の跡を襲うかたちで17年7月、稲葉は侍ジャパンの監督に就任した。

 

 稲葉に課された最大のミッションは「東京五輪での金メダル」である。

 

 監督未経験者の稲葉に対しては、球界の内外から「大丈夫か?」との声が上がっていた。「気にしていない」と言いながらも、プレッシャーにさいなまれていたことは想像に難くない。

 

 今回の優勝により、背負っていた重い荷物を、ひとつくらいは降ろすことができたのではないか。来年7月に開幕する東京五輪に向け、弾みがついたことは間違いない。

 

 小久保が代表の指揮を執っていた頃、当時、中日のGMだった落合博満から、こんなアドバイスを受けたという。

 

<日本代表(侍ジャパン)の監督になった当初、自分でも気づかないうちに、インタビューなどで「大変」という言葉を使っていた。「大変な役を引き受けてしまい……」。日の丸を背負う事の重圧が日増しに募り、その気持ちを正直に話していた>(日本経済新聞19年11月12日付)

 

 そんなある日、落合からダメ出しをくらう。

<「あのな、監督なんて、つらくて大変なものに決まってんだから、いちいち口に出すなよ」と落合さん。口を開けば大変、と言っているような監督に、選手が安心してついていけるわけがない、もっと堂々としていなさい、という意味だった>(同前)

 

 落合から小久保への指摘は、稲葉にも伝わっているのではないか。私が知る限りにおいて、稲葉はネガティブな意味で「大変な役」という言葉は一切、口にしていない。

 

 野球が五輪の正式競技に格上げされたのは1992年バルセロナ大会からだが、日本は一度もセンターポールに日の丸を掲げてはいない。

 

 日の丸の重みに耐えかね、自縄自縛に陥っているようなところがあった。五輪は「軽装充備」の精神で臨みたい。

 

<この原稿は2019年12月27日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものを一部再構成しました>

 


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