第690回 初代・代打の神様の凄い伝説(高井保弘)
12月13日、元阪急の高井保弘が腎不全のため死去した。74歳だった。
高井と言えば、プロ野球における“初代・代打の神様”である。通算27本の代打ホームランは、今もなお「世界記録」だ。
師匠は、南海時代の野村克也をして「日本のプロ野球を変えた」と言わしめたダリル・スペンサーだ。
メジャーリーグ通算901安打、105本塁打の実績を引っ提げてスペンサーが阪急に入団したのは1964年。その年、いきなり36本塁打をマークした。
翌65年から3年間に渡って阪急のヘッドコーチ、打撃コーチを務めた青田昇は自著『ジャジャ馬一代』(ザ・マサダ)で、こう述べている。
<スペンサーが相手投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力は、まことに凄いものがあった。実を言えば、この僕も、長年のプロ野球経験で、その方面では人後に落ちないという自負を持っていたのだが、スペンサーの眼力、はそれ以上だった>
高井とスペンサーは“同期入団”である。スペンサーの<相手投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力>を目のあたりにして高井は驚嘆した。
「これがホンマのプロや、と思ったね。なにしろ、ピッチャーが投げるたびにメモを取るんやから。そこまでするか、とワシはカミナリにでも打たれたような気分になったもんや」
以来、高井は見様見真似でピッチャーのクセ盗みに磨きをかけていった。
その一例を紹介しよう。当時、ロッテに成田文男という右の本格派がいた。20勝以上を4度(68、69、70、73年)もマークしている。
成田の最大の武器は、多くのバッターから「真横に滑る」と恐れられたスライダーだ。
「成田のスライダーは、真っすぐのスピードでビュッと滑る。魔球の一種や。真っすぐの打ち方では打てん。あれほど打つのに苦労したボールはなかった」(野村克也)
当然のことながら、高井も成田のスライダーには手を焼いていた。しかし、相手のエース級を攻略しないことには、代打の価値はない。
高井はそれこそ目を皿のようにして成田のピッチングを凝視し続けた。
その甲斐あって、ある日ついに成田のクセを見破ったのである。
<ストレート、スライダーの場合はワインドアップの時、グラブで頭をトントンと速く2回叩く>
<カーブ、フォークの場合はワインドアップの時、グラブで頭を大きくドーンと叩く>
かくして75年6月7日、苦手の成田から代打ホームランを奪ってみせたのである。
75年、パ・リーグに指名打者(DH)制が導入されると、高井はDHで起用されることが多くなった。77年にはDHでベストナインにも選ばれている。
しかし、個人的な好みでいえば、やはり高井は「代打男」だ。一振りに賭ける執念と集中力は他の追随を許さなかった。賞金首を狙う用心棒のような凄みが、この男にはあった。合掌
<この原稿は2020年1月5日、12日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>