子どもの時に受けた強い印象が、躯の奥底にまで染みこんで、一生を左右することがある。要田勇一はそんな人間のひとりである。

 

 彼が初めて憧れたサッカー選手は、ブラジルから読売クラブに加入したばかりの細身の若者だった。カズこと三浦知良である――。

 

 三浦知良は、1967年2月に静岡県で生まれた。小学校入学と共に、父親である納谷宣雄が設立した『城内スポーツ少年団』に加入。82年12月、静岡学園高校を1年生で中退し、納谷がいたブラジルに渡った。

 

 86年に名門サントスFCとプロ契約を結んだ後、ブラジル国内のクラブを渡り歩いている。90年に再びサントスと契約を結び、6月に凱旋帰国。7月に読売クラブに入った。2カ月後の9月、日本代表に初めて選出されている。

 

 要田は当時をこう振り返る。

「憧れの選手でしたし、全部真似してました。丁度、カズさんが日本に戻ってきたぐらいだったんじゃないですかね。天皇杯か何かの試合を(ビデオに)録って繰り返し観てました。キックもそうだし、服もヴェルディの緑色のを着てました」

 

 三浦の他、父親の納谷も要田の人生に関わることになる。もちろん、このときはそんなことは夢にも思っていない。

 

 要田のいた小園中学校のサッカー部は、尼崎市内のごく平凡な中学校だった。近隣で強豪だったのは、小田南中学である。要田が1年生のとき、小田南の3年生に奥大介がいた。

 

「中学のときは、小田南とか強い学校とは試合する機会はなかったです。(大会などで)会場が一緒になったとき、すげーなって見ているだけ」

 

 周囲の中学校に埋もれて結果が残せなかったこともあったろう、小学生のときのように県の選抜チームに呼ばれることはなくなった。

 

「ずっと県トレ(ーニングセンター)に入っていたのに、中学では市選(抜)止まり。小学校のときはトレセンには行きたくないって言っていたんですが、中学のときは入りたいって思うようになりました。でも呼ばれなかった」

 

 中学に入ったばかりの頃、サッカー部の顧問がこう言ったことがあった。

――お前たちが高校を出ている頃には、日本にもプロリーグができているだろう。そのとき、プロのサッカー選手になるという朧気な夢を持つようになったのだ。

 

 高校進学を考える時期になり、神戸弘陵のセレクションに参加することになった。

 

 割り切れなかった不合格

 

 神戸弘陵高等学校は83年設立の神戸市北区にある私立学校である。サッカー部は90年1月に行われた全国高等学校サッカー選手権――通称「選手権」に初出場していた。要田が中学3年時、兵庫県大会を勝ち抜き、2度目の選手権出場を決めている。かつて仰ぎ見ていた2つ年上の奥大介がいることも魅力的だった。

 

 午前中の授業が終わった後、サッカー部顧問の運転する自動車で神戸弘陵に向かった。

 

 ところが――。

「神戸弘陵って山の中にあるんです。着くまでに渋滞にはまってしまって、練習時間に遅れてしまった。10分ぐらいですかね。プレー的には躯も動いていたし、OKかなと思っていました」

 

 手応えがあったのだが、しばらくして不合格の通知が来た。神戸弘陵の監督が、練習時間に遅れたことを問題にしたのだという。言われた通り学校を出たのにと、要田は割り切れない気分だった。

 

 兵庫県内では、神戸弘陵と並ぶ強豪は滝川第二高等学校だった。しかし、滝川第二は要田の住んでいる尼崎市から遠い。そこで進学先に浮かび上がってきたのが、神戸国際大学附属高等学校だった。神戸国際は1963年に八代学院高等学校として開校、92年に現在の校名に改名していた。

 

「神戸国際に上手く引っかかってくれた。サッカー部は県でベスト16ぐらい。まあまあ、という成績でした」

 

 93年4月、要田は神戸国際高校に入学、すぐにフォワードとしてベンチ入りしている。

 

 翌5月、Jリーグが開幕。開幕戦はヴェルディ川崎対横浜マリノスだった。試合前、国立競技場の華やかなカクテル光線の中を歩く三浦知良の姿が眩しかった。

 

 1年時、選手権の兵庫県大会で神戸弘陵と対戦している。奥が3年生にいた。

「そのとき、初めて(奥と)一緒のピッチに立ったんです。ちょっとやっただけで、この人、うめぇって思いました。もう次元が違ってました。足元の技術はもちろんですけれど、躯も強いし、判断も速い。とても敵わんと。たしか、1対2で負けました」

 

 神戸弘陵は兵庫県大会で優勝し、全国大会に進出した。選手権2回戦で日大山形、3回戦はPK戦で神奈川県代表の桐光学園を下した。続く準々決勝で鹿児島実業と対戦し、0対2で敗れた。

 

 ちなみに、準決勝で鹿児島実業は清水市商業にPK戦で敗れている。清水市商業が決勝で長崎県の国見を下して優勝した。

 

 鹿児島実業には城彰二、遠藤彰弘、清水市商には安永聡太郞、佐藤由紀彦、田中誠、川口能活、国見には船越優蔵、さらに2回戦で敗れた山梨県の韮崎には中田英寿がいた。Jリーグという新しいプロリーグが、こうした若い才能を後押しすることになる。

 

 全国に行けるチームとの差

 

 要田が2年生になると、弟の章が神戸国際に入学して来た。上級生の3年生にも水準の高い選手が揃っていた。

 

「ぼくらも(神戸)弘陵を倒せるぐらいになりました。インターハイも選手権も決勝まで進んだんです。選手権の県大会決勝は(1年生の)章も出ていて、2人でツートップを組んでいました」

 

 県大会で神戸国際は弘陵に勝利している。試合後、弘陵の監督が「要田を獲っておけば良かった」とぼやいていたと、人伝いに聞いた。要田は「遅いやろって(監督に)言うておいて」と冗談で返した。ようやく評価してもらったことが嬉しかったのだ。

 

 しかし、インターハイ、選手権共に決勝で滝川第二に敗れている。

「選手権(の県大会決勝)は2対3まで追いついたんですけれど、4点目を食らって、2対6で負けました。波戸、吉田、葉田(聖侍)というスリートップは全国でも有名でした。あの3人を(神戸国際の守備陣は)止められなかった。特に波戸君は、スピードのあるフォワードで点取り屋でしたね」

 

 滝川第二のスリートップの2人は、要田よりも1学年上、3年生の波戸康広と吉田孝行だった。高校卒業後、2人は横浜フリューゲルスに入る。

 

 そして要田は最上級生になった。そこで、全国に進めるチームとそうでないチームの差をまざまざと感じることになる。

 

「自分たちの学年になったとき、(全国に)行けるかなと思ったんですけれど……。上手い選手はいたんです。でも天性というか、持って生まれたものだけでやっていたり、他の選手が練習しているのにしないとか。ぼくは副キャプテンだったので、注意したんです。それが原因で監督と揉めたこともあった。弘陵は県内のいい選手を集めていました。滝(川第)二は寮があるので県外からも集められる。ぼくらはその下の(レベルの)選手だったんです」

 

 また、同じ兵庫県の中でも、要田たちの尼崎市を中心とした東部出身者と、姫路市や明石市などの西部出身者が混じり合わない傾向があった。その壁を最後まで壊すことができなかったという。

 

 Jリーグでやってみたいという気持ちはあったが、インターハイ、選手権と一度も全国大会に出ていない選手に声は掛からない。サッカーを辞めることは考えていなかった。要田は社会人チームでサッカーを続けるつもりだった。

 

 しかし、思った通りにはいかなかった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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