愛媛県の松山市立さくら小学校に入学し、1年生の終わり頃から地元の少年団でサッカーを始めた中田有紀。4年生からは桑原女子FCというチームにも加わった。愛媛県サッカー協会の理事がこのチームのコーチを務めていた。専門家の指導のもと、中田はめきめきと力をつけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 桑原女子FCでは、四国県代表として全国大会にも出場した。「桑原ではコーチに勝たせてもらい、いろんな経験をさせてもらったはずです」と母・彩子。中田は前線に位置取りゴールネットを揺らすのが役割だった。

 

 中学に進学するとAC MIKANという女子のクラブチームに入団。さらに平日は愛媛FCジュニアユースの男子と一緒にトレーニングを積んだ。中田はこの頃をこう述懐した。

「セレクションで選ばれた男子たちですからレベルは高かった。1年生の時は同じくらいの体格の男子がいましたが、2年3年になるにつれて、彼らは体が大きくなっていく。フィジカルトレーニングも一緒にやりましたが“坂ダッシュ……何本やるんだろう”ととてもきつかった。必死になってついていきました」

 

 中田は対人の攻防に長けている。小柄ながらフィジカルコンタクトを苦にしない。この頃に培った強靭な足腰が彼女のプレーを支えているのだろう。

 

 レベルの高いトレーニング、全国大会に参加し、実力を伸ばした中田。中学生の年代別日本選抜に選ばれるようになるのだ。サッカー生活は順風満帆だったといっていい。

 

 そんな彼女が、より高いレベルを求めるようになるのは、至極当然だった。進路先候補にあがってくるのは自然と県外の私立高校だった。彼女が選んだのは兵庫県にある強豪校・日ノ本学園高校だ。同校は明治26年に開校された歴史ある女子高校。2020年現在でサッカー部は全国トップレベル。インターハイを6度、冬の選手権を3度制覇している強豪校だ。寮も視察し、生活面も考慮して中田自身で進学を決めたのだ。

 

 初めての挫折

 

 春になり、拠点を兵庫に移した。しかし、入学してしばらく中田はプレーできる状態ではなかった。中学卒業前に左足を負傷してしまったからだ。リカバリーに時間を要し、トレーニングに復帰したのは5月あたりだった。ここから中田は苦しい時期を過ごすことになるのだ。

 

「(ハイレベルな試合を展開する先輩たちを見て)なんか、違うチームを見ているようでした。自分のレベルじゃないと表現すればいいんでしょうか。選抜に選ばれて変に自信があったのかもしれません。通用しないということを認めたくなかったのだと思います」

 

 加えて、長いブランクが感覚を鈍らせていた。再び中田のコメント。

「出場チャンスをもらっても自分の殻を破れない。ピッチから遠ざかっていたので、自分はどんなプレーをしていたのか、思い出せなくなって一気に自信を無くしました。ホームシックにもなりました」

 

 自信を失った高校1年生は心を閉ざしてしまった。寮に帰ってもあまり同僚とはコミュニケーションを取らなかった。ただ、何となく練習に行き、帰り、眠る。先輩に食らいつくんだ、という闘争心にも火が灯らなかった。「高校1年と2年の時は時間の経過が相当遅く感じた」と中田。左足より深い傷を負っていた心は、なかなか癒えることがなかった。

 

 試合に出れば「ボールを受けたくない」と思うほどメンタルはどん底だった。サッカーを辞める勇気もなかった。誰に相談すればいいのかもわからなかった。自分の弱みを人に見せることも怖かったという。

 

 中田のメンタル状況とはお構いなしに、先輩たちはタイトルを獲得していく。強豪校に籍を置くことが心の重荷になりつつあった。だが、日ノ本学園高校サッカー部の田邊友恵監督は中田に手を差し伸べる。心優しき名将の決断は、中田の人生を大きく好転させるものだった。

 

(最終回につづく)

 

<中田有紀(なかた・ゆき)プロフィール>

1997年11月28日、愛媛県松山市生まれ。MFC-桑原女子FC-AC.MIKAN-日ノ本学園高等学校-早稲田大学ア式蹴球部女子部。3つ上の兄の影響で小学生の時にサッカーを始める。2013年、兵庫県の女子サッカー強豪校・日ノ本学園高校に入学。2年時に攻撃的なポジションからサイドバックに本格的に転向。3年時には主将を務めた。16年、早稲田大学に入学。1年時より左サイドバックのレギュラーとして試合に出場している。身長154センチ。

 

(文・大木雄貴/写真・杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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