第218回 オシムに愛された男 ~要田勇一Vol.4~

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 1995年夏、高校3年生となっていた要田勇一は、進路を決める時期となった。

 

 兵庫県内ではそれなりに名前を知られる選手にはなっていたが、所属する神戸国際大学附属高校ではインターハイ、高校選手権ともに全国大会に出場がない。Jリーグは霞の向こうの遠い世界だった。

 

 そして巡り合わせも悪かった。要田と同じ年には才能がひしめいていたのだ。同じフォワードには“超高校級”として注目を集めていた、富山第一高校の柳沢敦がいた。その他、習志野高校の福田健二、廣山望、あるいは鹿児島実業の平瀬智行――。

 

 要田が行き先として考えていたのは、実業団チームだった。

「親からサッカーなんか長くできない、辞めた後でも仕事ができるところを選んだほうがいいと言われていました。それで大阪ガスに社員選手として入るつもりでした」

 

 夏頃、要田は大阪ガスの練習に参加している。そしてサッカーの実力は問題ないという評価を受けていた。

 

 しかし――。

 

「(練習には大阪府の)北陽(高校)のフォワードも来ていたんです。そのとき北陽のサッカー部は有名で、全国にも行っていた。その選手が大阪ガスに入ることになったので、(同じポジションの)お前は獲れないと言われたんです」

 

 サッカーを諦める気にはなれなかった。ただし、黙って座っているのが苦手な要田は勉強は苦手だった。大学進学という選択肢はなかった。どうしたらいいのだろうかと考えていたある日のことだった。サッカー部の監督から、同級生がJFLのクラブの練習に参加する、お前も一緒に行くかと声を掛けられた。

 

「メインは同級生の2人でした。大阪ガスに落ちた後だったんで、8月とか9月だった記憶があります。行ってみると高校生が60人ぐらい集まっていた」

 

 JFLに所属していたヴィッセル神戸である――。当時のJFLはJリーグの1つ下のカテゴリー、2部に相当した。

 

 クラブの母体となったのは岡山県倉敷市に本拠地を置く、1966年設立の川崎製鉄水島サッカー部だ。87年に川崎製鉄サッカー部に改称。Jリーグ発足に合わせて神戸市に移転、前年の94年9月から『ヴィッセル神戸』となっていた。

 

 トライアウトは試合形式で行われた。60人の選手たちは5、6チームに分けられた。そのとき、要田は思わず、おーっと声を出した。同じ組に中学生時代、尼崎市選抜で一緒だった選手が5人いたのだ。

 

「彼らは違う高校に行っていたけれど、どういうプレーヤーかお互いに知っていますよね。ぼくのプレースタイルも分かっている。どんどんボールが回ってきたので、ゴールを決めることができた」

 

 60人中、合格したのは3人。要田はその中の1人だった。

「(神戸国際から)一緒に行った2人は落ちました」

 

 ちなみに落ちた中には、初芝橋本高校のフォワードもいた。彼は冬の全国高校サッカー選手権に出場、得点王となりコンサドーレ札幌に滑り込んだ。元日本代表の吉原宏太である。

 

 プロ選手としてサッカーを続けることができると、要田は嬉しくてたまらなかった。JFLを勝ち抜けば、Jリーグに昇格できる。この年、要田の憧れの選手である三浦知良がイタリアのジェノアからヴェルディ川崎に復帰していた。三浦と同じピッチに立てるかもしれない。そう思うと心は躍った。

 

 しかし、神戸の条件を知った両親は渋い顔になった。契約期間は半年間、月収15万円だったのだ。手取りにすれば12万5千円にしかならない。

 

 さらに三宮の寮に入ると給料の半分が消えることになった。寮から練習グラウンドまでは約1時間も掛かるという。寮に入る意味がないと要田は実家から通うことにした。

 

 神戸に入って、要田が驚いたのはクラブハウスが貧弱だったことだ。

「神戸ができたばっかりで、スタッフもあまりいなかったんです。小さなプレハブで風呂はなくて、シャワーも3つぐらい」

 

 これには理由がある。

 

 神戸市に移転した際、クラブが経済的支柱として考えていたのは、地元に本拠地を置く大手流通チェーンの『ダイエー』だった。ところが、95年1月、阪神淡路大震災で一帯は甚大な被害を受け、ダイエーはクラブ経営から撤退。そのため、運営に必要な金銭を集めるために四苦八苦という状態だった。

 

 とはいえ、イギリス人のスチュワート・バクスターが率いるチームは豪華だった。

 

 ラウドルップにぶつけた純粋な想い

 

 ディフェンダーにはこの年に浦和レッドダイヤモンズから曹貴裁が加わっている。高校を出たばかりの要田にとって、近寄りがたく「めちゃくちゃ怖かった」という。フォワードには、永島昭浩、神野卓哉という、それぞれガンバ大阪、横浜マリノスで実績のある選手もいた。

 

 そして何より、デンマーク代表のミカエル・ラウドルップである――。

 

 64年生まれのラウドルップは18歳で代表デビュー、その後キャプテンも務めた。デンマーク史上最高の選手と称されることもある。89年から5シーズン、FCバルセロナに、94年から2シーズン、レアルマドリードに所属。96年シーズンから神戸に移籍していた。

 

 神戸に入ってしばらく、要田はサテライトチームにいたため、ラウドルップと交わることはなかった。2年目のシーズンが始まる前、トップチームの合宿に呼ばれて、初めてラウドルップと一緒に練習をすることになった。そのとき、彼のプレーに刮目することになった。

 

「もう本当に凄い。(ボールを)止める、蹴るのは正確。それも凄いんですけれど、パスを出すときに、受け手のことを考えている。受け手が右足で受けたいのか、左足で受けたいのか、右足ならばどの位置が一番いいのか、そういうのを一瞬にして判断して、パスを出すんです。ぼくたちはボールを(相手に)取られないようにとか、ミスをしないことしか考えられない」

 

 思い切って通訳に頼んで、ラウドルップに「どうすればサッカーが上手くなるのか」を聞いてもらうことにした。要田らしい、素朴な、直線的な質問である。

 

 すると――。

 

「たくさんボールを蹴ること、人より練習をすることっていう返事をもらいました。プロって、チームの練習時間以外は、フリーなんです。時間が有り余っている。それをなんとか有効利用できないかと思って、チーム練習の後、ひとりでボールを蹴っていました」

 

 ラウドルップのような正確な、そして様々な種類のキックを習得したいと思い、1時間ほど居残り練習をしていたのだ。早く片付けたいのにと、チームマネージャーが迷惑そうな顔をしていたのを覚えている。サッカーが上手くなりたくて仕方がなかった。そして自費でスポーツジムにも入った。すべてはトップチームに昇格するためだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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