二宮清純: 楽天にいる内村賢介も、もともとは独立リーグ(BCリーグ)の出身でした。身長が163センチしかなく、高校球児と見まがうような体格なのに、立派にプロのレギュラーを張っている。

 

 <この原稿は2009年2月号『Voice』に掲載されたものです>

 

野村克也: 彼は、巡ってきたチャンスをものにした典型です。レギュラーだった高須洋介が自打球を当ててしまい、急遽、セカンドのポジションが不在になった。二軍の松井優典監督に「セカンドができる奴はいないか」と問い合わせたら、推薦できるような選手はいないという。「それなら、足が速い選手はいるか」と聞きました。「ひとりいます」と答えた、そのひとりが育成枠にいた内村だったのです。

 

二宮: 守備も上達しましたね。

野村: おかげでチームの守備範囲がものすごく広がりました。

 

二宮: グラブの届く範囲が、1メートルは違うでしょう。

野村: もっとでしょうね。ベンチが彼のポジションの真正面なので、見ていて驚きます。塁間の真ん中を抜けていく緩いゴロなど、選手によって捕れるか捕れないか、決定的に違う。バッターボックスに入っても、ランナーがいないにもかかわらず、相手が俊足を警戒してバックホーム態勢をとっている。もう少しミートの確率が上がれば、ヒットゾーンもさらに広がるでしょう。一軍に上がってきたばかりのころはグリップの細いバットを使っていたので、「もっと太いバットにしろ。そして三遊間に転がして足を生かした打ち方を身に付けろ」と指示しました。あとは一日中、バントの練習をさせている。野手の真正面に行かないかぎり、ほとんど一塁セーフになりますから……。

 内村にはスペシャリストの強さというか、プロで生き残るには、人よりひとつ以上、秀でたものをもっている必要があることを教えています。

 

二宮: 野村さんはその得意技を見逃さず、内村にチャンスを与えた。これも監督の力だと思います。

野村: しかし、私も最近は優勝から遠ざかっているので、いろいろと考えさせられます。私の監督としてのキャリアは南海から始まって、その後ブランクを挟んでヤクルト、阪神、楽天で4球団目ですが、共通しているのは、みんな最下位の球団でした(笑)。

 以前、ヤクルトで指導した池山隆寛や橋上秀樹に「おまえら、ヤクルト時代と比べて俺をどう思う?」と尋ねたことがあります。

 

二宮: 何と答えました?

野村: 「丸くなって、優しくなった」と。ヤクルトの監督時代は、とてもじゃないが、怖くて話し掛けられる雰囲気ではなかったそうです。そんなにピリピリしていたかな、と意外に感じる反面、思い当たる節もあります。

 

二宮: 一方で、選手時代、野村監督が野球哲学を形成するなかで、さまざまな指導者の下で研鑽を積まれたと思います。たとえば、400勝投手のロッテ・金田正一監督はいかがでしたか。

野村: 失礼ながら、指導者としては学ぶところが多くはなかった(笑)。とにかく「走れ、気合だ」という野球でしたから。金田さんの言葉でいまも覚えているのは、「野村、野球は理屈じゃねえ」と。一方、投手としての金田さんは並外れた能力をもっていました。こちらに向かって投げた球が上から下にズドンと落ちる。あんなボールを投げられるピッチャー、現在ではどこにもいません。

 私はキャッチャー出身だったので、ピッチャー出身の監督とは考え方が多少、違うのかもしれません。キャッチャーの発想の根本は「危機管理」でしょう。試合が始まる前に、相手のラインナップを見て「1番バッターのこいつを出したら、4番までつながれてしまう」というシミュレーションを行ない、野球をする前に「準備野球」をするという習慣が身に付いている。

 

二宮: 向こうの得意なパターンを頭に入れて、それだけはさせないように配球を組み立てるわけですね。

野村: 試合に臨むとき、相手のデータは多ければ多いほどいい。

 ただし注意が必要なのは、監督は集まった情報を取捨選択して捨てなければいけない。北京オリンピックで日本代表が負けたひとつの要因に、データは豊富にあったけれども、それらを絞り込んで選手にはっきり指示を与えられなかった、という点が挙げられます。データが揃えば勝てる、というものでのない。

 戦いは「戦力」「士気」「変化」「心理」という4つの要素で成り立っています。いざ試合が始まったら、それらのバロメーターをつねに見ながらチーム全体の力を高める采配をするのが、監督の仕事です。まあ、こんなことばかり話すから、金田さんから「理屈っぽい」といわれるのかもしれない(笑)。

 

二宮: 彼は、野村監督を「野球哲学者」と呼んでいます。有名な「ID野球」と呼ばれるデータ分析とともに、つねに変化する状況を見て、冷静に判断を下される。すべてのプレーに根拠を求めるのも、野村監督ぐらいです。つまり“結果オーライ”ではない。

野村: 変化を見る目や、状況への対応というのは、一度試合が始まったら、つねに意識しています。

 野球は、原則的にシンプルなスポーツです。9回で合計27のアウトを取ったら終わり。もし圧倒的に強いチームであれば、相手バッターをピッチャーの力でねじ伏せて、27のアウトを取ってしまえば勝ちです。しかし弱いチームの場合、バッターだけでアウトを取ろうとする野球をしていると強いチームには対抗できません。フォースアウト(封殺)やダブルプレーやサインプレー、トリックプレーを織り交ぜたり、相手の作戦を見抜くなどして、塁上でアウトを稼ぐことを考えなければいけない。

 たとえば相手の攻撃でツーアウト満塁というときに、「いちばん油断しているランナー」を見つける。そのランナーをターゲットにして、サインプレーでアウトを取れば、相手チームとしては「何やってんだ!」ということになるでしょう。チームの士気にかかわる。

 あるいは、同じくツーアウト満塁、ツースリーのカウントのとき、投手の始動と同時に塁上のランナーはスタートを切ります。そのとき、いちばん早くスタートを切ろうとしているのが二塁ランナーです。そこでピッチャーにサインを送り、三塁に偽投牽制したうち、二塁に牽制球を投げさせる。

 

二宮: 普通なら、三塁に投げると見せかけて一塁に投げさせますね。

野村: その逆を取ったのです。相手の心理を突いて、負け試合を勝ちにうまく転がしたという経験が、とくに南海時代は幾度もありました。「攻め」というのは「正攻法」と「奇策」で構成されていて、弱いチームの場合、必然的にこのような奇策を多く組み入れていかなければいけない。

 

二宮: 奇策の狙いどおりに選手を動かすのも、並大抵なことではないでしょう。

野村: 当時、どちらかといえば不器用な江本孟紀にもサインプレーをさせましたが、彼は理にかなったことでなければ反発するタイプだったので、論理的に、懇切丁寧に説明しました。

 エラーが多く「ポロリの寺田」と呼ばれた一塁手の寺田陽介は、一方でサインプレーに長けていた。相手の一塁ランナーがリードをする歩幅を観察して、一塁牽制の有無を阿吽の呼吸でコントロールしていました。選手はひとりひとり違うので、それに合わせて指導しなければいけない。

 また、私が南海時代のことですが、一塁への牽制球でピッチャーが悪送球し、一塁手の後ろに守りがいないので、相手のランナーがすべてかえってしまった。当時の鶴岡一人監督に「勝手なことをしやがって!」と怒鳴られました。

 その場は怒られただけだったから、同じ局面でまたやるかどうか迷った末に、再び牽制球を投げたんです。すると今度は見事に決まり、ベンチへ帰ると、鶴岡監督は「おー、よしよし」。典型的な結果オーライの上司だったので、面白かったですね。たとえばバッターの打った球が左中間を抜け、打者が二塁を回って三塁へ走るとベンチから「馬鹿たれ、馬鹿たれ!」と罵声が飛んでくる。でも、三塁セーフになった瞬間に「おー、よしよし」(笑)と。

 もちろんいまは時代が変わりましたら、南海時代のような手が通用しないところもあります。さらに、奇策はあくまでも奇策であって、相手が今度はマークします。1年間、通用するはずがない。そこでまた「戦力」「士気」「変化」「心理」に応じて、新たな奇策を開発するわけです。

 

(後編につづく)


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