要田勇一は1996年4月にヴィッセル神戸に入っている。

 

 前回で触れたように阪神淡路大震災の余波で、メインスポンサーとして予定していたダイエーが撤退。厳しい経営状態にあった。その影響はチーム構成にも及んでいた。トップチームこそ、デンマーク代表のミカエル・ラウドルップや元日本代表の永島昭浩、神野卓哉といった選手を揃えていたが、サテライトの選手層は薄く、1チームも作れないほどだった。

 

 要田はこう振り返る。

「(監督だったスチュワート・)バクスターはトップチームの20人ぐらいを見るだけ。残りのサテライトの選手は昼の3時ぐらいに集合。7人ぐらいで練習していました。サテライトの試合は上で出られない選手が下りて来て、チームを作っていました」

 

 同期入団した松岡良彦、江口倫司がフォワードに起用され、要田はサイドバック、中盤のサイドハーフに回された。

 

 サテライトリーグは3つに分けられており、神戸は西日本の7クラブで構成された「グループC」に入っていた。Jリーグのアビスパ福岡、サンフレッチェ広島、セレッソ大阪、ガンバ大阪、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)、そしてJFL所属の鳥栖フューチャーズ(現・サガン鳥栖)である。

 

 要田がフォワードとして起用されたのはサテライトリーグ開幕からしばらくしてのことだった。第6節の広島戦で初得点を挙げた。そして前半戦終了直前の2試合、京都戦で3得点、セレッソ大阪戦で2得点、得点ランキングトップに立った。

 

 7月31日付の『神戸新聞』では<ただいま“得点王”ルーキー要田>という見出しで写真入りの記事が掲載されている。

 

<サテライトチームの郡晴己監督は「もともとスピードのある選手。チームになれるに従って、自分の能力をゲームに生かせるようになった」と指摘し、「相手にとって怖い存在になってきた。今はサッカーが楽しくて仕方ないんじゃないですか」と、成長著しいストライカーに目を細める>

 

 この時期、アトランタオリンピックが行われていたこともあったのだろう、要田はこう語っている。

 

「4年後の(シドニー)五輪に出てみたい」

 

 このシーズン、要田はサテライト得点王となった。

 

 トップチームも順調だった。JFLで本田技研に次ぐ2位に入り、Jリーグへの昇格を決めた。ちなみに得点王は、本田技研のワグネル・ロペス、後の呂比須ワグナーである。

 

 2年目のシーズン、サテライト監督にノルウェー人のラース・セッターが就任した。セッターは若い選手たちの扱いを心得た指導者だった。欠点を指摘するのではなく、長所を伸ばそうとしたのだ。

 

「自分は攻撃(の選手)なので、とりあえずゴールに向かえと言われました。ボールを持った時、選択肢のひとつとしてパスも悪くない。でも、ストライカーというのはどんな時でもゴールに向かっていくんだ。ゴールを狙えって。練習以外でも声を掛けてくれて、色々と話をしました」

 

 トップ昇格、そしてJデビュー

 

 セッターとの会話は通訳を通して、である。そして、彼には日本的な上下関係という共通認識がない。自分の良さをきちんと見ていてくれるという安心感があった。もしかして、自分は外国人指導者の方が合うのではないかと思った。

 

 セッターは要田をトップチームに昇格させるよう主張した。トップチームの成績が芳しくなかった。ならば若手を抜擢した方がいい。当然の考えである。

 

「ラースは、ぼくの他、2、3人の若手をトップにあげたいと思っていたんです。でも(トップチーム監督の)バクスターは認めなかった。それで一悶着があって、ラースが切られたんです。バクスターの腹心として連れてきたコーチだったんですけれど」

 

 この年、97年シーズンは2シーズン制で行われている。神戸はファーストステージを17チーム中14位、セカンドステージは最下位という散々な成績だった。

 

 このシーズンのチャンピオンシップは鹿島アントラーズとジュビロ磐田との間で行われた。磐田が優勝を決め、MVPはドゥンガ、新人王は鹿島の柳沢敦だった。柳沢は要田と同じ年である。柳沢が結果を残したことで焦りを感じたのかと問うと「それはなかったです」と首を振った。

 

「自分のことだけ考えるので精一杯でした」

 

 成績不振の責任を取りバクスターは解任。翌年からスペイン人のベニート・フローロが監督となった。フローロによってようやく要田はトップチームに引きあげられることになった。

 

 ファーストステージ第8節、4月25日のセレッソ大阪戦で要田はJリーグデビューを飾っている。

「このときはサイドハーフで出ました。サテライトでもずっとサイドハーフでしたね。フォワードには、永島(昭浩)さん、神野(卓哉)さん、和多田(充寿)さん、金度勲がいました。身体もまだ大きくなかったので、サイドで使われたんだと思います」

 

 しかし、リーグ戦はもう1試合、計2試合のみ、カップ戦でも1試合の出場に留まった。

 

 10月、要田はサテライトチームの一員として高校生の選抜チームと練習試合をしている。その試合で突然、プロ選手としての将来を断ちきられることになる――。

 

 前十字靱帯断裂という大怪我を負ってしまったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


◎バックナンバーはこちらから