さる2月11日、虚血性心不全のため84歳で死去した野村克也の代名詞とも言える「再生工場」の第1号は1973年に巨人から南海にやってきた山内新一ではなかったか。

 

 

 前年、山内は0勝に終わっており、トレードを持ちかけてきた巨人・川上哲治監督に、「冗談でしょう」と返したという。

 

 南海側はバリバリのレギュラー富田勝。選手兼監督のノムさんにとっては間尺に合わないトレードである。

 

 ノムさん曰く「ポンコツ寸前だった投手」を20勝投手に導いたのだから、世間は驚いた。

 

 実はノムさん、ある点に注目していた。山内は二度の故障により、ヒジが「く」の字に曲がっていたのだ。

 

 ヒジの変形により、ストレートを要求しても微妙にスライドした。巨人のコーチは、これを欠点と見なしたのだが、ノムさんは長所として利用した。

 

 パの打者は、初めて見る山内のくせ球に手を焼いた。これが20勝に結びついたのである。

 

 この年、野村南海はプレーオフで常勝・阪急を破り、7年ぶりのリーグ優勝を果たした。再生人・野村の手腕は、いやが上にも高まった。

 

 ノムさんの反骨の原点、それは同僚の杉浦忠ではなかったかと思う。

 

 テスト生上がりながら、入団4年目の57年に本塁打王に輝くなど、順調に地歩を固めていたノムさんにとって、東京六大学野球のエース杉浦の存在は、太陽以上にまぶしかった。杉浦は入団2年目の59年、38勝4敗という、途轍もない成績でチームを初の日本一に導くのである。

 

「誰が受けても38勝4敗や」

 いつだったか、野村さんは自嘲気味にそう話していた。

 

 この時、ノムさんが味わった無力感は想像に難くない。

 

 自身の存在価値を証明するには、二流やポンコツの投手を再生するしかない。言葉は悪いが、廃物利用の第一号が山内だった。

 

 その意味で、日本一にはなれなかったものの、73年のシーズンは、ノムさんにとって会心のシーズンだったに違いない。

 

<この原稿は2020年3月16日号『週刊大衆』に掲載されたものです>

 


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