予兆は全くなかった、という――。

 

 1997年10月、要田勇一にとってヴィッセル神戸に入って2年目となるシーズンが終了した。神戸はファーストステージ17チーム中14位、セカンドステージは最下位に沈んだ。このシーズン、ようやくトップチームの試合に出場。ただし、ポジションは本来のフォワードではなく、サイドハーフだった。ようやくプロの水にも慣れ、来季はフォワードのレギュラー争いに割って入るつもりだった。

 

 すでにチームは来季に向けて動き始めていた。サテライトチームは高校生選抜チームとの練習試合が組まれていた。

 

 試合が始まってしばらくしたときのことだ。要田はボールを持ったディフェンダーを追いかけた。相手の切り返しに、足元が滑り右膝から転んだ。自分の躯が傾いていくときに、膝が嫌な風に曲がっているのを感じた。

 

 要田はこう振り返る。

「パチンという音がしました。ぼくは骨(が折れたの)かなと思いました」

 

 要田はピッチに崩れ落ちたまま、立ちあがることができなかった。膝に力が入らなかったのだ。トレーナーに担がれてピッチの外に出た。

 

「足を伸ばしてみろと言われました。足は伸びたので骨ではない、たぶん靱帯だろうって。すぐに病院に連れていってもらい、MRI(核磁気共鳴画像法)を撮ったら、やっぱり前十字靱帯が切れていた」

 

 前十字靭帯とは、膝関節で大腿骨と脛骨を繋いでいる靭帯である。頸骨が前へ移動しないように押さえる、あるいはねじった方向に動かないように支える役割を果たしている。ちょうつがいのように繋がった2つの骨を支えているゴムのような帯と考えていい。

 

 急激な方向転換、停止、衝突によって膝関節に強い力が掛かったとき、靱帯は断裂する。元ブラジル代表のストライカー、ロナウドも右膝前十字靱帯を断裂している。脚の強い筋力に、関節を支える靱帯が耐えきれなくなるのだ。

 

「それまで大きい怪我をしたことがなかった。すごく落ち込みましたね。前十字が切れても動くことはできるんです。オペ(手術)まで筋力を落とさないようにずっと自宅から神戸(の練習場)まで通って筋トレをしていました。初めてのオペ。全身麻酔も初めてでした」

 

 前十字靱帯の再建手術自体の難易度は高くない。厄介なのは、機能回復――リハビリである。

 

「また(膝が)ぐにゃっとなるのが怖い。最初はほんと、2、3歩歩く程度からスタートでした」

 

 半年ほどのリハビリで走れるようになると聞かされていた。まずは地道にリハビリをすることだった。

 

 ところが――。

 

 退院から1週間ほど経った頃、クラブから呼び出された。会議室に入るなり、こう言われた。

 

「戦力外」

 

 要田は心の中でふざけるなと叫んでいた。クラブの練習中の怪我であり、本来ならば公傷扱いされるべきだった。それなのに怪我をした自分を放り出すのかと、目の前が真っ暗になった。

 

 闇に差した希望の光

 

「そのとき向こうが言っていたのは、他のチームを探すかというのではなくて、うちでスタッフをやって指導者を目指すかと。そのとき、ぼくは21(歳)でしたし、現役を続けるつもりでした」

 

 いいですと、捨て台詞を残して要田は部屋を出て行った。クラブ側も経営が苦しく、試合に出られない選手を抱えておく余裕はなかったのだろう。

 

 要田が契約を切られたことはすぐに広まった。何人ものチーム関係者が要田を気遣って電話をくれた。

 

「トレーナーの方とはすごく仲が良かったんです。トップチームがいないときに来てくれれば、ケアをしてあげるし、リハビリのメニューも作って一緒にやろうと言われました。でも、(実家から)練習場まで1時間、2時間かけて行きたくないというのもあったんで、病院を紹介してもらってメニューだけ作ってもらいました」

 

 しばらく実家から30分ほどの距離にある西宮市の病院に通って、電気治療を受ける日々が続いた。

 

「足は曲がらないし大変でした。もう一度、サッカーをやりたい、それだけでしたね」

 

 歩けるようになると、芦屋の鉄板焼き屋でアルバイトを始めた。実家にいるとはいえ、最低限の生活費を稼がなければならなかった。

 

「飲み屋が半分、お好み焼き屋が半分みたいな店でした。中日ドラゴンズにいた山﨑武司さんが通っていました。バイトしているときに何度かお見えになって、“おープロ(野球選手)来るんや”って思っていました」

 

 アルバイトの面接では、しばらく働くつもりだと言っていた。しかし、働いているうちにサッカー選手に戻るには、ここにいてはいけないという思いが強くなっていた。

 

「身体が動くようになってきたんですが、練習するグラウンドもないし、時間も取れない」

 

 要田は弟の章に相談してみることにした。1歳年下の章は、要田と違って学業成績が良く、立教大学に進学、サッカー部に入っていた。

 

「立教大学のキャプテンが、そういうことならば、トレーニングをしながらサッカー部と一緒に練習に参加してもいいと言ってくれたんです。それでバイトを1カ月ぐらいで辞めて東京に行くことにしました。(98年の)3月ぐらいでしたね」

 

 要田は最小限の荷物を持って、章のアパートに転がり込んだ。

 

「最初は走り中心ですよね。心拍数を上げるためにダッシュ。そして長距離を走るようになった。まずは(サッカーボールよりも柔らかい)バレーボールを蹴り始めました」

 

 東京に向かったのは、練習場所確保に加えて、もう1つ理由があった。自分に興味を持っていると聞かされていたクラブがあったからだ。

 

 横浜FCである――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)など。最新刊はドラフト4位選手を追った「ドラヨン」(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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