新日本プロレスのSHOは1歳上の“相棒”YOHとの関係をこう口にする。

「YOHさんとは長年タッグを組んできた。2人で海外遠征に行き、メキシコで風神雷神、アメリカではTHE TEMPURA BOYZ。日本に帰ってきてからは“Roppongi 3K”とずっと一緒にやってきた。デビューから8年以上、何から何までずっと一緒にやってきたので、YOHさんとじゃないとできないこともたくさんあると思います。相手の意図することも、肌で感じられるくらいのレベルには達しているかなと」

 

 

 

 

 

 

 2人の出会いについては入門テストまで遡る――。

 

 SHOは徳山大学4年時、かねてからの希望通り、新日本プロレスに履歴書を送った。他団体という選択肢はなかった。たとえ、この年の新日本プロレスの入門テストに落ちたとしても、1年後再受験するつもりでいた。周囲の勧めで受けた福岡県警の採用試験の面接の場では「僕はプロレスラーを目指しています」と言い放ったほどだ。

 

 後日、書類審査を通過した約20人の中にSHOはいた。東京・野毛にある新日本プロレスの道場で行われた入門テストに参加した。参加者の中で2番目に身長が低かったのがSHOだった。アマチュアレスリングで培った体力には自信があったが、不安も小さくなかった。

「体力テストで一番でも、体格で落とされる場合もあると聞いていました。自分が大学2、3年の時にも新日本プロレスの入門テストの応募条件は“身長180cm以上”でしたから。その条件ではテストを受けることすらできませんが、運良く自分が4年の時は身長制限がなくなっていたんです」

 

 体格では劣る。そう考えたSHOが、入門テストでアピールしたのは「気持ち」だった。「表情と声、気迫だけは見せてやろうと思っていました」。2組に分かれ、スクワットをした時には、誰よりも声を出した。誰に命じられるわけでもなく大声で回数をカウントした。SHOのアピール方法を真似する者がいれば、それ以上に大きな声を出した。

 

 入門テストで一際目立つ男は、もう1人いた。誰もが苦戦するロープワークもそつなくこなし、受け身も取れる。SHOが“すごい人がいるな”と驚いた男の名は、のちにタッグパートナーとなる“YOH”――。それがSHOとYOHとの最初の出会いだった。

 

 分け合った初白星

 

 結局、この年の入門テストを通過したのはSHOとYOHの2人だけだった。練習生は道場での住み込み生活。携帯電話は没収され、日々練習と雑用をこなす毎日だ。正直、心が折れそうになったこともあったという。

「毎日同じことをこなしながら、いつデビューできるかは分からない。大学時代の仲間が就職して給料を稼いでいく中で、先の見えない焦りもありました」

 

 心の支えとなったのは唯一の同期YOHの存在だ。

「1人だったらふさぎ込んでいたかもしれないです。YOHさんと2人で愚痴りながら、なんやかんやで頑張ってこれた」

 ライバルであり、仲間でもあるYOHと切磋琢磨しながら、夢を追い続けた。

 

 練習、査定試合を経て、入門から9カ月でデビューを果たした。2012年11月、東京・SHIBUYA-AXで先輩の渡辺高章に胸を借り、5分足らずで散った。逆エビ固めで一本負け。試合後、目に涙を浮かべたSHO。「試合に負けた悔しさと、プロレスラーになれたうれしさ。両方の想いがこみ上げてきました」と、プロとしての第一歩を振り返った。

 

 初勝利までは、それから1年以上かかった。場所は東京・後楽園ホール、相手はYOHである。その間、YOHとは幾度も闘っていた。

「何十回と数えきれないほど、ずっと引き分けでした。YOHさんとは先輩やお客さんからずっと比べられてきた。練習で同じメニューを出されても自分だけできないということが多々ありました」

 11分58秒、逆エビ固め。歯を食いしばる想いで、掴んだ1勝だ。

 

「当時はすべてにおいて先を越されていた」という相手からの勝ち越しも2日後、五分に戻された。YOHに初白星を献上してしまったのだ。その後も2人はリングで闘い続けた。

 

 ヤングライオン(新日本の若手選手の通称)時代の15年には、YOHがBEST OF THE SUPER Jr.(ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア)に初出場。一方のSHOはプロレスリング・ノアが6年ぶりに開催したグローバル・ジュニア・ヘビー級リーグ戦に参戦した。SHOは小川良成、原田大輔、拳王、ザックセイバーJr.ら各団体でベルトを巻いた経験を持つ猛者揃いのAブロックに入った。

 

「自分は当時、新日本のレスラーで一番弱い、いわば底辺のレスラーでした。その底辺が他団体でどこまでやれるのか。底辺だからこそ新日本プロレスのレベルのバロメーターにもなる、と。そういう想いもあって、自分で勝手に思い込んで、団体を代表し、誇りを持って参戦しました。また他団体からの参戦だったのでお客さんの中には、よそ者として見られていたかもしれません。だからこそ燃えるものがありました」

 結果は1勝5敗。優勝争いに絡むことはできなかったが、他団体のジュニア選手とのシングルマッチで闘えたことは貴重な経験となった。

 

 海外遠征で得たもの

 

 16年1月、新日本プロレスからSHOとYOHの無期限の海外遠征が発表された。

「プロレスラーとしての基礎ができていないと海外には行けない。だからひとつの目標ではありました。海外遠征はヤングライオンからの卒業とも言える。時間はかかりましたが、“ようやくだな”という想いでした」

 

  最初の行き先はメキシコ。プロレスは“ルチャリブレ”と呼ばれ、国民的スポーツだ。SHOとYOHの闘いの場はCMLL、リングネームはSHOが雷神、YOHが風神になった。「場数は踏めましたね。日本とは違うルールや形式で闘いました。いろいろな勝ち負けも経験できたと思います」。メキシコでの経験は、確実にSHOの血となり肉になっている。現在のフィニッシュ・ホールドであるクロスアーム式パッケージパイルドライバーの“ショックアロー”も、この頃手にした武器だった。

 

 その年の9月にはメキシコを離れることとなった。次の行き先はアメリカだ。アメリカではROHの興行に参戦した。今度はTHE TEMPURA BOYZというユニットとして、リングネームは雷神からSHOに変わった。

「メキシコでは何も残せなかった。何のタイトルも獲れなかった。自分より先にメキシコへ行った高橋ヒロムはメキシコでベルトを巻きました。メキシコはマスクマンがマスクをかけて闘ったり、髪をかけて闘うコントラマッチという試合があります。それもひとつのステータス、キャリアの箔になる。しかし自分は何もかけられないまま、アメリカへ行ったので、すごく焦っていました」

 

 アメリカではCMLL時代と比べ、試合数も少なかった。試合ができない期間にただ指をくわえていたわけではない。滞在先の夫婦が柔術教室に通っていたこともあり、SHOはアメリカで柔術を学んだ。

 

「アメリカでは試合数がメキシコほどなく、月に1回できるかできないか程度でした。だからこそトレーニングはがっちりできたと思う。UFCのトップファイターが集まるようなニューヨークのジムで総合格闘技(MMA)の練習や柔術の練習をしました」

 新日本に参戦した経験もあるダニエル・グレイシーからの教えを受け、ブラジリアン柔術で青帯を獲得するまでに成長した。アメリカではMMAの試合にも出場した。“すべてはプロレスに生かすため”。その想いがSHOを突き動かしていた。

 

 そして17年秋、YOHと揃って、日本へ帰ってきた。きっかけは現在のRoppongi 3K監督のロッキー・ロメロからの誘いだった。ロメロはバレッタと“Roppongi Vice”を組んでいたが、17年に解散。新たな戦略を模索しているところだった。

 

 帰国後初戦は10月、東京・両国国技館が舞台だ。いきなりIWGPジュニアタッグ選手権試合である。「ヤングライオンではないというところを見せなければいけなかった」とSHOが語ったように、ド派手に登場したRoppongi 3K。王者・田口隆祐&リコシェ組と対戦した。

 

 チャンピオンチームはそれぞれ田口がシングルでIWGPジュニアヘビー級王座を、リコシェがベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニアのタイトルを獲った経験もある強敵だ。老獪なテクニックを持つ田口と、抜群の身体能力を誇るリコシェを相手にRoppongi 3Kは海外遠征で培ったコンビネーションを駆使して対抗する。

 

 SHOは持ち前のパワーを生かし、ラリアットや連続のジャーマン・スープレックスなどで田口とリコシェに大ダメージを与えた。最後はリコシェに合体型のフェイス・バスター“3K”を食らわせ、YOHが3カウントを奪った。SHOとYOHはタイトルマッチ初挑戦で初戴冠という大きなインパクトを残した。

 

 2人はこのままスターダムを駆け上がるかと思われたが、苦悩の日々が待っていた――。

 

(最終回につづく)

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SHO(しょー)プロフィール>

1989年8月27日、愛媛県宇和島市生まれ。小学4年からサッカーを始める。高校3年からレスリングに転向。徳山大学では全日本学生選手権グレコローマンスタイル84kg級3位、西日本学生選手権フリースタイル同級準優勝などの実績を残した。卒業後の12年、新日本プロレスに入門。同年11月、デビューを果たした。16年から同期のYOHと共に無期限の海外修行に出た。17年10月にYOHと帰国。新ユニット“Roppongi 3K”としてIWGPジュニアタッグ王座を奪取した。11月にはSUPER Jr. TAG LEAGUEを制覇。現在3連覇中である。今年1月にIWGPジュニアタッグ王座を奪還し、2度の防衛に成功している。身長173cm、体重93kg。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、競技写真提供/新日本プロレス)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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