今年は川上哲治生誕100年にあたる。川上と言えばオールドファンには「赤バット」だが、私たちの世代には「V9監督」の方がしっくりくる。

 

 当初の予定通り、3月20日に開幕していれば、4月8日、生まれ故郷・熊本での巨人対中日戦が「生誕100年記念」として行なわれることになっていた。残念ながら新型コロナウイルス感染拡大により流れてしまった。

 

 川上には厳格なイメージが強い。グラウンドで報道管制を敷いたのは、おそらく川上が初めてだろう。東西冷戦のシンボルである“鉄のカーテン”をもじり“哲のカーテン”と呼ばれたりもした。

 

 私たちの世代には、劇画「巨人の星」の影響が大きかった。戦争で肩を壊した飛雄馬の父・一徹はビーンボールまがいの“魔送球”を編み出し、打者走者を威嚇するのだが、これを咎めたのが川上だった。「わが巨人軍は紳士の球団だ。キミは今すぐ巨人を去りたまえ!」。この魔送球が飛雄馬の大リーグボール2号に結実するのである。

 

 初めて川上にインタビューしたのは1989年春のことだ。西武球場での試合後、3時間も時間を得た。西武は85年から88年にかけてパ・リーグ4連覇を達成していた。86年から指揮を執る森祇晶は巨人V9時代の正捕手であり、石橋を叩いて渡る手堅さは、師匠譲りと言われていた。代名詞の「管理野球」は評価が二分していた。

 

 川上とライバル関係にあった西本幸雄は、川上の野球を「内務班的な野球」と評していた。内務班とは軍隊用語で、陸軍の兵営で平時、兵が起居した組織単位のこと。そこまでして勝ちたいのか、という皮肉がこもっていた。森の「管理野球」も、その延長線上にあるというのである。

 

 その点を質すと、川上のヒザが小刻みに震え始めた。川上はベンチでピンチになると貧乏ゆすりをすると聞いていたが、これだったのかと得心した記憶がある。しかし、返ってきた言葉は想定外も想定外、私が川上に抱いていたイメージは木っ端微塵に打ち砕かれた。「僕が今監督なら、もう管理野球はやらんね。あれは僕の発明品。これからの監督には僕のつくった野球を叩き壊し、新しいものに挑戦してもらいたい」。シュンペーターではないが「創造的破壊」である。「勝つことは楽じゃない。勝ち続けて初めてわかるんです」とも。その言葉を、時折思い出しては反芻する。

 

<この原稿は20年5月6日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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