1999年3月、要田勇一が東京行きの準備をしていたとき、ヴィッセル神戸でチームメイトだった神野卓哉から連絡があった。

 

 70年生まれの神野は修徳高校から、横浜マリノスの前身となる日産自動車サッカー部に入っている。91年にはバルセロナオリンピック予選日本代表にも選ばれている。96年から神戸に移籍。同じフォワードということで、何かと要田の面倒をみてくれた。神戸で最も親しい先輩の一人だった。

 

 この年の元日に行われた天皇杯決勝を最後に横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併されることになった。これに反対したフリューゲルスのサポーターたちが横浜FCという新しいクラブを立ち上げていた。3月、横浜FCは日本フットボールリーグ(JFL)に準会員加盟が認められた。フリューゲルスの選手が、古巣であるマリノスに加わっていたこともあり、神野の耳に横浜FCの動きが入っていた。

 

 神野は「これからどうするつもりなのだ」と訊ねた。要田が、まだ現役でやりたいんですと答えると、横浜FCが要田に興味を示していると教えてくれた。

 

「今回は無理ですって答えました。来年話があったら、みたいな感じで終わりました」

 

 前十字靱帯断絶の手術の後、リハビリ中で全力疾走さえできない。それでも自分の存在を意識してくれているクラブが存在することは嬉しかった。

 

 3月に上京し、弟の章が所属する立教大学サッカー部の練習に参加。少しずつ躯が動くようになった。

 

 要田の頭の中には横浜FCの名前がいつもあった。

 

 横浜FCはJFLで18勝3分3敗という好成績で1年目のシーズンを首位で終えていた。シーズン終了後に入団テストが行われることを耳にした。

 

「神野さんに連絡したら、(横浜)FCはまだ気にしてくれているって。それで一般でテストを受けることにしました」

 

 要田の記憶によると200人ほどの選手が集まっていたという。試合形式のテストが行われ、その中から4人が残された。要田はそのひとりだった。

 

 リティとの出会い

 

「正直、(体調は)ベストではなかったです。でも、そこそこは動けましたね。そこで合格じゃなかったんです。練習に1カ月参加することになりました」

 

 要田は都内に住んでいた章のアパートに転がり込んでいた。ここから横浜まで通うのは遠すぎる。まだ正式な契約を結んでいないため、寮に入ることもできない。そこで要田は川崎市に住む、章の同級生を頼ることにした。

 

「スーツケース1個持って、章の同級生の家に住まわせてもらった。家族の中にいれてもらったんです」

 

 ぼくは本当に色んな人に助けられているんですと、微笑んだ。

 

 横浜FCの監督は、ピエール・リトバルスキーである。

 

 リトバルスキーは60年に西ドイツで生まれた。78年に1・FCケルンでデビュー。81年に西ドイツ代表に選出、ワールドカップには3度出場している。93年シーズンからジェフユナイテッド市原に移籍。現役引退後、横浜FCの立ち上げから監督に就任していた。

 

「リティは教えるのが上手いというか、見せるのがすごく上手い。自分でプレーして教える。ドリブル、フリーキック、何やらせても凄い。止める、(正確に)蹴るがしっかりできている。ボレーでもボール(の芯)をきちんと捉えているんです」

 

 そして改めて外国人指導者との相性の良さも感じた。

 

「日本人(の監督)は自分が言ったことをやらないと試合には使わない。でも外国籍の監督は、調子のいい選手をどんどん使う。リティもそうでした。ぼくは外国籍の方がやりやすいんかなと思いました」

 

 応援してくれた“親父さん“

 

 1カ月の“試用期間”の後、横浜FCと契約を結んだ。ただし、要田が入った頃の神戸と同じで、継ぎ接ぎだらけのクラブだった。

 

「当時は練習場がなかったので、いろんなところ、公園など行きましたね。ロッカールームがないので、着替えは車の中。テーピングは青空の下で巻いてました。シャワーがないので、練習帰りに車で3分100円の(コイン)シャワー。3分で全部終わらないじゃないですか。だから(ゴールキーパーの)水原(大樹)さんと、100円ずつ入れて6分を2人で使ってました」

 

(練習場所の)駐車場代も自腹でしたし、きつかったですね、と要田は首を振った。

 

 練習時間が終わった後、要田たち選手が居残ってボールを蹴っていた。スピーカーから「次の団体が来ているので、帰って下さい」という声が流れてきた。

 

 リトバルスキーはそれを聞いて「何、これっ」と日本語で不満そうに言った。要田たちは、世界のリトバルスキーがここにおるんやぞと顔を見合わせて苦笑いした。

 

 所属クラブが決まり、ようやく要田は“居候”の立場から脱出した。

 

 しかし――。

 

「寮はトイレ、シャワー、炊事場全部、共同スペースです。看護婦寮だったものを買い取ったと聞きました」

 

 困ったのは食事だった。練習で疲れ果てて帰って来ても、食事の準備はない。自分たちでなんとかしなければならなかった。

 

「(寮のあった)新子安駅前に古いレストランがあったんです。毎晩、同じような時間に食べに行ってました。(日焼けして)色が黒くて、躯ががっしりした奴が毎日来るから、そこの親父さんから“何やっているんや”って。いちおう横浜FCでやってますって答えました。当時は横浜FCは無名。じゃあ応援してやるって、1000円ぐらいの定食を500円で食べさせてもらってました」

 

 数年前、要田はあのときはお世話になりましたと礼を言うために店を訪ねている。しかし、一帯の景色はすっかり変わっており、店はなかった。近くで聞いてみると、孫が引き継いでいたようだが、それもずいぶん前に閉店したという。おじいさん、亡くなったんですかね、と要田は悲しそうな顔をした。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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