第177回 引退後も持ち続けるアスリート・マインド(瀬古利彦)
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響を受け、1年の延期が決まった東京オリンピック・パラリンピック。代表選手の選考に関心が集まる中、日本陸連の瀬古利彦・マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは、男女6人が内定しているマラソン代表選手について、「権利を守ってあげたい」と再選考の可能性を否定した。
男子は中村匠吾(富士通)、服部勇馬(トヨタ自動車)、大迫傑(ナイキ)。女子は前田穂南(天満屋)、鈴木亜由子(日本郵政グループ)、一山麻緒(ワコール)。6月の理事会で承認される見通しだ。
瀬古は3月29日に放送されたTBS系の人気番組「サンデーモーニング」で「(東京オリンピックが)中止にならなくてよかった。早く延期を決めた森(喜朗・組織委員会)会長と(IOCトーマス・)バッハ会長に“あっぱれ”をあげたい」と語っていた。
続けて「モスクワ(五輪の開幕)が7月19日だったんです。ボイコットが決まったのが5月24日。(わずか)2カ月前に。その間、やるんだかやらないんだかわからなくて、(選手たちは)練習に身が入らなかった」とも。
40年前の苦い記憶である。瀬古には「自分たちのような苦しい経験を今の選手たちにはさせたくない」との思いもあるようだ。
1970年代後半から80年代前半にかけて、瀬古は自他共に認める日本、いや世界最強のマラソンランナーだった。
80年モスクワ五輪代表選考会も兼ねた79年12月の福岡国際マラソン。瀬古は「絶不調」だったにもかかわらず、残り200メートルで宗兄弟(茂と猛)を振り切り、トップでテープを切った。
競技場に入る手前の坂で瀬古に追い付かれた茂は、後にこう語った。
「追い付かれた時点で負けを覚悟しました。瀬古さんは絶対的なスピードを持っていたので、トラック勝負になったら厳しいことはわかっていました」
ところが、である。日本は79年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、米国らとともにモスクワ五輪をボイコットする。
代表内定選手たちが次々に“涙の訴え”を行うなか、瀬古は抗議の声を上げなかった。
「泣いてはいかん。女々しい真似だけはするな」
師である中村清監督から、そう念押しされたのだ。
「そりゃ悔しかったですよ。(金メダルを獲る)千載一遇のチャンスだと思っていましたから……」
ライバルとして長きに渡ってしのぎを削った茂はこう語っている。
「当時の瀬古さんは、“オレが勝たないで誰が勝つんだ”というぐらい強かった。でも、結局、オリンピックの女神は降りてきませんでしたね」
ピークを過ぎて出場した84年ロサンゼルス五輪は調整の失敗もあり、14位に沈んだ。モスクワでの経験があれば、結果もまた違ったものになっていたかもしれない。
競技人生の大事な時期を政治に翻弄された瀬古にすれば「中止ではなく延期でよかった」は本音だろう。
<この原稿は『サンデー毎日』2020年4月19日号に掲載されたものです>