安倍晋三首相の「アンダー・コントロール」の号令の下にスタートした東京五輪・パラリンピックは、「完全な形」を目指して来年の夏に向かおうとしている。

 

 いったい何をして「完全な形」というのか。首相の発言から類推すると①アスリートも観客も安心して参加。②パンデミックの終息――このふたつを指していると見られる。どちらも高いハードルだ。

 

 跳べないハードルにチャレンジしても向こうずねをケガするだけだ。4日、「完全な形」について聞かれた菅義偉官房長官は「アスリートや観客にとって安心・安全な大会にすることが大事」と答えた。ややトーンダウンした印象だ。

 

 簡素化は、もはや避けられない。開閉会式の縮小や観客席の削減、聖火リレーの日程短縮などが、既に俎上に載せられている。コロナ禍が長期化し、財政が逼迫する中、現実を見据えての選択と言えるだろう。

 

 では安心・安全面はどう担保するのか。これについては選手や関係者、観客を対象にPCR検査を実施する見通し。仮に陽性反応が出た場合は、「お引き取りください」ということか。

 

 これは忍びない。PCR検査の陽性者が、まるでドーピング違反者のように扱われることになりはしまいか。「隔離」という言葉も「平和の祭典」にはそぐわない。

 

 言うまでもなくオリンピック憲章は「いかなる差別」をも禁じている。入国に際し、もし感染者と非感染者を選別するような措置をとれば、それは「病者」に対する差別と見なされかねない。

 

 英国のボリス・ジョンソン首相が感染したことからも明らかなようにウイルスは人も場所も選ばない。その意味でウイルスは誰に対しても平等だ。しかし死亡率は富裕層と貧困層との間で大きな差がある。英財政研究所は<イングランドとウェールズのCOVID-19患者の内、(所得の低い)アフリカ系イギリス人が白人の3倍のペースで死亡している>という調査結果を発表している。

 

 私が案じるのは五輪を通しての「コロナ格差」の顕在化だ。仮に健康者とコロナ封じに成功した国だけが集まって大会を開催し「コロナに打ち克った証」と誇った場合、取り残された者たちとの間で分断が進むのではないか。簡素化に舵を切るなら一部の大国がメダルを独占しないための人数面での調整や配慮があってもいい。コロナを機に五輪も変わるべきである。

 

<この原稿は20年6月10日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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