公正中立が求められる取材者にも思い入れの強い選手はいる。私にとって実質的なMLBのパイオニアである野茂英雄は、そんな選手の代表格だ。彼の前に道はなかった。彼が分け入った獣道が、やがてアスファルトを敷き詰めた舗道になった。「男は黙ってヒデオ・ノモ」。かつて自らが書いた原稿に、そんなタイトルを付けたことがある。寡黙ゆえに、たまに発する言葉には重みと深みがあった。そして、それは今も変わらない。

 

 還暦を迎えた今年、柄にもなく人生を振り返ってみた。取材者として、もし戻れるとしたらいつか。ステイホーム期間中に古い手帳とノートを取り出した。米国での取材が楽しくて仕方がないといった具合に文字が躍っている。1995年6月、つまり今からちょうど25年前だ。「June in Glory」(栄光の6月)。この月、全米でトルネードが吹き荒れた。

 

 6月2日、メッツ戦でのMLB初勝利で勢いに乗った野茂は7日エクスポズ戦、14日パイレーツ戦、19日カージナルス戦、24日ジャイアンツ戦、29日ロッキーズ戦のすべてに勝利した。このうち2試合が完封勝ち。スタンドには三振を示す「Kボード」が並べられ、「バナナボートソング」のメロディに乗り、多くのファンが「ヒデーオ・ヒデイ・エイ・エイ・オー」と口ずさんだ。

 

 95年はMLBにとって特別なシーズンだった。前年の8月に選手会が打ったストライキは232日間にも及び、95年の開幕は例年より1カ月も遅れた。「億万長者たちの争い」にファンはしらけ、スタジアムからは客足が遠のいた。

 

 そこに現れたのが年俸10万ドル(約960万円・当時)の日本人である。クルリと腰を回転させる独特のフォームから繰り出す“消える魔球”で居並ぶ強打者たちから三振を取りまくるのだ。米国人が好む極上のエンターテインメントが、そこにあった。「MLBはキミに救われたよ」。こう語ったのはレッズの主砲ロン・ガント。「あの言葉は忘れられない」。無口な野茂が珍しく頬を緩めていた。

 

 ストライキとパンデミック。事情は異なるが、開幕の遅れた2020年のプロ野球も特別なものとなるだろう。ニューノーマルの中の非日常。たとえば佐々木朗希がいきなり165キロを出したら世間は引っくり返るだろう。菅野智之には完全試合を、山川穂高や柳田悠岐には特大アーチを期待する。誰でもいい。鬱々した空気を切り裂いてもらいたい。

 

<この原稿は20年6月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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