2000年シーズン、横浜FCは2年連続でJFLを優勝し、J2昇格を決めた。背番号10を与えられた要田勇一は10試合出場、3得点という成績だった。

 

 シーズン終了後、要田を重用していた監督のピエール・リトバルスキーがバイエル・レバークーゼンのコーチに就任しクラブを去った。翌01年シーズンから監督が永井良和になると、出場機会が減った。さらにシーズン途中の9月、永井から信藤健仁へと監督交代。以降、出場機会は与えられなかった。

 

 要田はこう振り返る。

「信籐さんになって、(同じフォワードである)佐藤正美とかが起用されるようになったんです。世代交代ではないんでしょうけれど、若い選手が使われるようなっていた」

 

 この時点で要田はまだ24歳であり、衰えが出る年齢ではない。しかし、新しい監督というのは、往々にして自分の色を出したがるものだ。その隙間にすっぽりと落ちてしまったのだ。

 

 そしてシーズン終了後のある日のことだ。

「(横浜市の)小机のレストラン、ファミレスに(強化担当者だった)田部(和良)さんに呼び出されました。それで、来年、戦力外って言われました。そのときは、そっか、みたいな感じでしたね」

 

 そのとき寮を出る期日を指定された。住む処さえ失うのだとはっとした、改めてプロの厳しさを思い知ったような気分だった。

 

 要田はすぐに実家の父親に電話を入れている。

「今回、あかんかったわって。そうしたら、もうサッカーを辞めて、関西に帰ってこいって言われました。親父にしてみれば、まだ若いから次の人生をやれって気持ちだったと思います。でもサッカー辞めて何をするか。正直、勉強も得意じゃないし、力仕事をするしかないかと。でも、まだ身体は動くし、サッカーをやりたかった。だから俺はまだやるって言い返したんです」

 

 この連載の1回目に書いたように、この年、01年の5月にぼくは要田、そして彼の弟・章と知り合っている。章からは「今シーズンで兄貴がクビになりそうです」と心配した口調の連絡が入っていた。2人と話して気がついたのは、彼らには頼れる人たちがそう多くないということだった。日本代表に入るような選手ならば、マネジメント会社や代理人がついている。しかし、プロ選手の縁に立っている、要田のような選手はそうではなかった。

 

 知り合いの代理人に連絡を取り、要田の経歴を簡単に説明すると、ああと嘆息した後、プロ契約を結ぶのはちょっと難しいかなという答えが返ってきた。この頃、地域リーグ所属のクラブがプロ契約の選手を抱えるのは稀だった。探すとなれば、J2、あるいはJ1である。すでに要田はヴィッセル神戸で戦力外通告を受けていた。そして、J2で下位に沈む横浜FCでさえ試合出場機会を与えられなかった選手の獲得に動くクラブはない、というのは代理人として当然の判断だったろう。

 

 サッカーはスパイクを脱ぐ時期を判断するのが難しい競技である。

 

 要田は自らの才能に限界を感じたのではない。指揮官から正当な評価を受けていないという不満を持っていた。そのままサッカー選手としての人生を終えれば、一生、この思いを抱えて生きることになるだろう。

 

 ぼく自身、高校に入ってすぐにサッカーをやめた男だった。ぼくの通っていた高校は、普通科と進学クラスが明確に分けられていた。進学クラスの生徒が、京都府内ではそれなりの強豪校の練習についていくのは時間的には難しかった。どうしても続けたければ、やり方はあったろう。しかし、それほどの選手ではないという自覚もあり、あっさりと諦めた(実際にぼくはバンド活動に熱中し、勉強は放り投げていた)。

 そんなぼくでも、サッカーを続けたかったという思いは心の奥底のどこかでうずいていた。Jリーガーとなれるのはサッカー少年のごく一握りである。そうしたレベルの選手がサッカーを続けたいのだというのだ。手伝わないという選択肢はなかった。

 

 チャンスを掴みにスペインへ

 

 ぼくがサッカーに惹きつけられるのは、言葉を使う物書きと違って、軽々と国境を飛び越えられるからだ。1997年から1年間、ぼくは南米大陸を放浪していた。そのうち、長い時間はブラジルで過ごした。ブラジルではどんな小さな街でもサッカークラブがあった。地方のスタジアムで時に舌を巻くような選手を見かけることもあった。水準に拘らなければ、どこでもサッカーは続けられるはずだった。ただし、要田は学業から逃げ回ってきた男である。語学の習得が壁になるかもしれないとも思った。

 

 そんなとき、納谷聖司の顔が頭に浮かんだ。

 

 三浦知良の父親、納谷宣雄の兄である。宣雄のブラジルでのサッカー留学を手伝っていた聖司は、スペイン北部ガリシア州のラコルーニャで同様の留学生ビジネスを始めていた。

 

 00年、出版社を退社した直後、ぼくはスペインとポルトガルを旅した。偶然、マドリードの街中で聖司と再会し、ラコルーニャへ同行した。聖司は私立学校の寮に十数人の留学生を住まわせ、地域の下部リーグに所属するクラブでプレーさせていた。ブラジルの留学生と少し違っていたのは、寮でスペイン語の授業を行っていたことだ。そのため留学生の多くは流ちょうにスペイン語を操っていた。彼らの存在は要田にとって心強いはずだった。

 

 聖司に電話を入れると、すぐに会おうという話になった。静岡在住の彼とはいつものように、東京駅地下の銀の鈴で待ち合わせた。要田を連れて行き、駅構内の喫茶店でお茶を飲んだ。

 

 聖司は、要田のようなプロ経験のある選手が留学生の中に入ることは刺激になると判断したのだろう、往復の交通費を自己負担すれば、宿泊、食事を含んだ寮費免除で受け入れてくれることになった。

 

 現地の留学生たちは、クラブの試合や練習がある土日以外の平日はデポルティーボ・ラコルーニャのコーチの指導を受けていた。

 

 このとき、デポルティーボは99―00年シーズンでリーグ優勝したばかりだった。本拠地、ラコルーニャは人口20万人ほどの小さな街だ。資金力が豊富ではないこのクラブがFCバルセロナ、レアル・マドリードといった世界のトップクラブに競り勝ったことは快挙だった。その秘密のひとつはスペイン国内のクラブにスカウト網を張り巡らせていたことだった。デポルティーボの持つ人脈を使って、2部リーグに所属するクラブのテストを受けさせようと、聖司は約束してくれた。

 

 ここまで一気に話が進むとは思っていなかったのだろう、横に座っていた要田は目を白黒させていた。

 

 年が明けた02年1月、ぼくと要田は日本を発ってスペインに向かった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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