(写真:1965年以降は日本武道館で開催。今年は広島で開催予定だった ⓒBS11)

 1952年にスタートし、大学団体日本一をかけて争われる「全日本学生柔道優勝大会」の2020年大会(男子第69回、女子第29回)が新型コロナウイルスの影響を受け、史上初の中止となった。そこで今回は大学1年時から主力として全日本学生優勝大会に4度出場したリオデジャネイロ五輪銅メダリストの羽賀龍之介(旭化成。東海大卒)と山部佳苗(ミキハウス。山梨学院大卒)に、大会にかけた思いについて訊いた。

 

――新型コロナの影響で、各競技は練習もままならない状況が続いていました。5月に緊急事態宣言は解除されましたが、現状はいかがでしょうか?

羽賀龍之介: 私は母校の東海大学を練習拠点にしていますが、3月の下旬から道場に行けず畳に上がれない状況です。緊急事態宣言が解除されてからは、ジムでトレーニングをしたり、走りに行ったりと少しずつ体を動かせるようにはなってきました。

 

――畳から離れたことで新たに取り組んでいることは?

羽賀: 以前より時間をつくれるようになったので、英会話の勉強に充てられる時間が増えました。あとは旭化成柔道部のオンラインミーティングをする機会が増え、部内でのコミュニケーションが活発に図れていると思います。

 

羽賀龍之介(はが・りゅうのすけ)1991年4月28日、宮崎県出身。旭化成所属。100kg級。5歳で柔道を始める。東海大相模高卒業後、東海大に進学。全日本学生優勝大会は出場した4大会すべてで優勝。東海大の6連覇に貢献した。15年世界選手権で金メダル、16年リオデジャネイロ五輪では銅メダルを獲得。身長186cm。得意技は内股。

――現在、柔道界では1人で行える稽古やトレーニング方法をSNSでアップする「standupjudo」という活動が広がっています。ロンドン五輪銀メダリストの杉本美香さんや、羽賀選手はその立ち上げに関わったと伺いました。

羽賀: このコロナ禍で連盟や団体が大変な時期に、選手たちにできることはないかと考えました。多くの人を巻きこむために、選手の中から有志でやっていくことがいいと判断し、最初は海老沼匡さんや大野将平らに協力してもらいました。今は稽古で組み合うこともできない。一柔道選手やトップ選手がトレーニング法を発信することで、参考になる選手はたくさんいると思うんです。それにトップ選手の状況を知ることが救いになるかもしれない。柔道の良さは外国にも認知されているので、うまくやりながら、もっとこの活動を広げていきたいです。

 

――現役選手に広がってほしいと?

羽賀: 私としては地方にいる小中学生や海外の選手に発信してもらい、皆がどういう状況なのかを知ることができ、そこで繋がりが広がればいいなと思っています。町道場が閉まっているため、稽古ができず孤独に感じている子たちを勇気付けられたらいいですね。

 

――羽賀選手は内股のトレーニング法をアップしていました。自らの技術を披露してしまう不安はありませんでしたか?

羽賀: 技を見せるということは本来現役選手にはリスクがあることです。私自身、誰でも見られるツールに上げることは価値を下げてしまうかもしれないと慎重になっていた時もありました。でも私としては少しの引き出しを紹介しているだけ。技を練習する映像を見られたからといって、大会で全く通用しなくなるかと言えば、そうではないと思っています。

 

 柔道で感動や勇気を

 

――残念ながら、今年の全日本学生優勝大会は中止となりました。現役大学生たちにエールを。

羽賀: 正直、かける言葉が見当たりません。でも競技に対するモチベーションだけは失ってほしくないですね。

 

――大会の活躍が進路に繋がる選手もいると聞きます。

羽賀: そうですね。例えば大会で全日本クラスの選手から勝ったり、引き分けた場合、「○○に勝ったのか」「○○といい勝負をしたのか」と、実業団チームの目に留まる。やはり生で観ないと分からない素材もあるので、その機会がなくなってしまったことはすごく残念です。ただ柔道には出稽古という素晴らしい文化がある。コロナが終息しなければいけませんが、もし行きたい就職先や進学先があるならば自ら稽古に参加してアピールするのもありだと思っています。

 

(写真:内股を武器に1年時から東海大を牽引。ポイントゲッターとして活躍した ⓒBS11)

――東海大在学中の4年間すべてで、全日本学生優勝大会の優勝に貢献しました。

羽賀: 団体戦は仲間と戦うのが好きなので、すごく燃えます。中でも全日本学生優勝大会は特別な思いのある大会ですね。学生大会では一番印象に残っています。どの学年の大会も明確に覚えていますが、4年生の時は主将を務めていましたし、当時ケガからの復帰戦だったこともあり、とても印象深いです。

 

――団体戦で圧倒的な強さを誇る羽賀選手ですが、4年時の準決勝・天理大戦は、安田知史選手に不覚をとりました。

羽賀: あの負けは今観ても悔しさが蘇ってきます。一本背負いで一本負けを喫しましたが、それまで学生の大会で、誰にも投げられたことがありませんでした。今振り返ってみると、投げられるべくして投げられたなと思います。

 

――投げられるべくして投げられた、とは?

羽賀: 気持ちに力みもありましたし、相手が私より20kg以上軽い80kg級の選手だったということもあり、油断が少なからずありました。勝負するまでに自分の気持ちを整えることができていなかった。そんな感情のまま勝てるほど、勝負の世界は甘くない。相手が私よりも上手でした。ただ準決勝から決勝までの少ない時間で、気持ちを切り替えられたことは自分を評価したい。大会6連覇がかかっていましたし、主将を任されたプレッシャーもありました。その意味で、自分自身はすごく成長させてもらった大会でした。

 

――東海大の4年間で大きく成長できたと?

羽賀: 東海大の選手たちは一個人として世界を目指しながらも、大学を背負って戦うという意識が強かった。また学生大会で経験した“絶対ポイントを取らなければいけない”とのプレッシャーは、なかなか味わえるものではありません。私の場合は連覇もかかっていましたし、大きなプレッシャーとも戦ったことが、成長に繋がったと思っています。

 

――最後に今後の目標をお聞かせください。

羽賀: 現役選手として、残された時間はそんなに長くない。コロナの影響で、大会が延期や中止となり、柔道界のスケジュールもグチャグチャになった。でも逆に柔道をできない時間を過ごしたことで、“柔道をしたい”という思いはさらに強くなりました。もう1回、目標が決まれば、それに向けて努力し、成果をあげることで周りの人に感動や勇気を与えたい。最後までやり切り、柔道人生を終えたいと思っています。

 

 人生を変えた一冊

 

山部佳苗(やまべ・かなえ) 1990年9月22日、北海道出身。ミキハウス所属。78kg超級。6歳で柔道を始める。旭川大高卒業後、山梨学院大に進学。全日本学生優勝大会は4年間で2度の優勝に貢献した。全日本選手権を3度優勝。16年リオデジャネイロ五輪では銅メダルを獲得した。身長172cm。 得意技は払腰。写真提供:ミキハウス

――コロナ禍の状況で組み合うことができず、満足な稽古がなかなか積めません。

山部佳苗: そうですね。今は自主トレを中心にやっています。ランニングのメニューはできるようになりましたが、畳に上がり、誰かと打ち込みの練習をするところまではできていないですね。

 

――新たに取り組んでいることはありますか?

山部: 今は基礎に戻ることを徹底していますね。足払いのひとり打ち込みを増やしています。

 

――あえて基礎を見直すと?

山部: ある程度キャリアを重ねていくと、枝葉を付ける作業が中心になると思うんですが、幹に戻って基礎を徹底しています。そうすることで技の切れやバリエーションも増すと思っています。

 

――柔道以外で取り組んでいることはありますか?

山部: 柔道以外では特にないです。最近は皆さんがSNSでアップされている稽古方法などを見て、“こういう技の入り方もあるのか”と勉強しています。

 

――現在、柔道界では1人で行える稽古やトレーニング方法をSNSでアップする「standupjudo」という活動が広がっていますね。

山部: 私自身はあまりアップするタイプではないので、見る側としての意見ですが、とても勉強になります。

 

――山部選手は、自粛期間にSNSの「文武両道。今だからできることチャレンジ」という企画でラグビー日本代表のメンタルトレーナーを務めた荒木香織さんの書籍を紹介していました。

山部: はい。『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』は私がリオ五輪に出る前、代表争いの最中に気持ちのコントロールが難しかった時期に出会った本です。

 

――当時はどのような心境だったのでしょうか?

山部: 周りと比較し、自分を保てなかった。どこにいてもオリンピックという状況が耐えられなかったんです。この本はとてもわかりやすく自分に落とし込むことができました。本の内容を実践し、不調から脱することができたんです。

 

――その後、出場したリオ五輪では銅メダルを獲得しました。人生を変える出会いでしたか?

山部: そうですね。私の人生の中で大きな一冊となりました。

 

――全日本学生優勝大会が中止となり、現役大学生にとっては不安な状況が続いています。後輩たちにエールを。

山部: こればかりは仕方がないことです。ただ、選手たちがこれまでやってきたことは絶対無駄にならない。どこかで必ず、この経験が生きてくるはずです。一生懸命やっていれば、いつか道は開けると思うので、最後まで柔道に打ち込んでほしいですね。

 

 一体感が魅力

 

――山梨学院大在学中に全日本学生優勝大会は4度出場し、2度の優勝に貢献しました。

山部: 私は1年生の時に3位に入り、2、3年生の時は優勝を経験させてもらいました。しかし、4年時は2位でした。最終学年で優勝できなかった大会が一番印象に残っています。

 

――勝った大会よりも勝てなかった大会の方が心に残っていると?

山部: はい。2、3年生の時は先輩たちがいたからこそノビノビできた。気負いせず戦えたので、チームを引っ張ることができたんだと思います。一方で4年生の時の大会はすごく重圧を感じました。先輩たちの偉大さを痛感しましたし、先輩たちのような存在に自分がなれなかったことも悔いが残っています。

 

――環太平洋大との決勝戦、1勝2敗1分けの場面で大将の山部選手に出番が回ってきました。優勢勝ちしたものの、最後は代表戦の末、山梨学院大は3連覇を逃しました。

山部: そこで私が一本勝ちをしていれば、内容差で優勝することができていました。しかし逃げる相手に私は一本を取り切れなかった。チーム、そして山部伸敏監督に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 

(写真:大学団体日本一を決める大会は独特の雰囲気を漂わせる。各大学応援にも熱がこもる ⓒBS11)

――全日本学生優勝大会は、ご自身の中でどういう位置付けでしたか?

山部: 大学団体日本一を決める大会です。私は北海道の旭川大高校出身で、全国大会の団体戦で優勝できなかった。団体で日本一になる経験は大学に入るまでありませんでした。下級生の頃は“優勝したらどういう感情になるんだろう”とワクワクして大会に臨んでいたのを覚えています。

 

――初めての団体日本一を経験したのが2年時の全日本優勝大会でした。決勝では東海大の田知本愛選手との大将戦で勝負を決めました。

山部: 2勝2敗で、私が引き分けたら負けという状況でした。チームとして積んできた練習に自信があったので、私の中では負ける気がしなかった。残り5秒で田知本選手に指導が与えられ、優勢勝ちを収めましたが、最後の最後まで慌てることはありませんでした。その時は、なぜか勝てるという変な自信があったんです。

 

――団体戦には個人戦とは違った魅力がありますか?

山部: チームが一丸となる団体戦は魅力的です。特に学生の大会は応援が独特で、個人戦では感じられない雰囲気が味わえます。もちろんプレッシャーも感じますが、それ以上にチーム一体となって戦うことが楽しかった。

 

――山梨学院大での4年間で得たものは?

山部: チーム一体になった時の強さを知りました。あとは全国各地に仲間ができました。大変なことはたくさんありましたが、それ以上に得るものが多かった大学生活だったと思います。

 

――その一体感は日頃の稽古から?

山部: 私の在学中は部員数も少なく、男女一緒に稽古をしていました。男子に稽古を付けてもらうこともありましたし、“男子には負けない”という思いで切磋琢磨していた記憶があります。大会での応援には一体感があり、“私も頑張らないと”という気持ちになりました。

 

――4年間、指導を受けた山部監督は熱い指導者として知られています。

山部: 本当に熱い方です。私は高校生の時から、会場で会うと必ず声を掛けていただきました。どこの会場だろうと、お互いがいれば絶対に私を探して声を掛けてくださった。それほど必要とされていると感じ、すごくありがたかったです。

 

――最後に今後の目標を。

山部: 4月の全日本選抜体重別大会は延期となり、次に出場する大会はいつになるか決まっていませんが、今できることをやるしかないと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 BS11では2009年~19年にかけての全日本学生柔道優勝大会の軌跡をまとめた特別番組『学生柔道10年の軌跡 大学対抗団体戦2009~2019』を、6月28日(日)19時から放送します。今回インタビューに答えてくれた羽賀龍之介選手、山部佳苗選手の学生時代の勇姿はもちろんのこと、12個のメダルを勝ち取ったリオデジャネイロ五輪代表の原沢久喜選手、ウルフ・アロン選手、出口クリスタ選手の3人の東京五輪代表・代表候補が、自信の近況と全日本学生優勝大会への思いをあらためて語ります。そのほか母校の歴史と誇りを賭け、しのぎを削った名勝負・名場面も。学生柔道の魅力が詰まった特別番組を、ぜひご視聴ください!


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