「僕はラグビーを好きな気持ちと運だけでここまできました」

 そう語るのがヤマハ発動機ジュビロ9年目のHO日野剛志だ。日本代表(ジャパン)通算4キャップ。スーパーラグビー(SR)、トップ14で海外リーグでのプレー経験を持つなど国際経験豊富な日野だが、いわゆるエリートではない。4歳でラグビーを始め、筑紫高校での花園出場はかなわなかった。同志社大学卒業後、トップリーグ(TL)のヤマハに入団した。同大4年時にようやくレギュラーの座を掴んだ遅咲き。ヤマハにはスカウトされたわけではなく、自ら売り込み、トライアウトで入団が決まった異例のキャリアを歩んできた。

 

 2011年、大学3年時点で日野は、リザーブに入っていたものの、定位置を掴んでいたわけではなかった。ラグビーは好きだったが、将来の生業にするかどうかは迷いがあった。同大OBの中村直人氏に相談すると、「絶対ラグビーを続けた方がいい。オマエならできるし、やるならTLを目指せ」と背中を押された。中村氏のアドバイスでプレー映像を作成し、TLのチームに送ることを決めた。

 

 現在、SNSで「ラグビーを止めるな2020」というハッシュタグを付け、選手のプレー動画をアップして各チームにアピールするプロジェクトが話題となっている。スタート時点は高校生の進路支援と言われていたが、今やその輪は広がり、大学生などの投稿も見受けられる。9年前の日野のアクションは、その先駆けと言えるかもしれない。日野は「ラグビーを続けたい気持ちがあるならば、恥ずかしがらずにどんどんチャレンジをするべきだと思います」と後輩たちにエールを送る。

 

 日野とヤマハとの縁は中村氏を通じて結ばれた。当時のヤマハ監督・清宮克幸氏(現・日本ラグビーフットボール協会副会長)と、長谷川慎コーチはサントリー時代に同僚だった。中村氏から送られたプレー映像を受け取ったヤマハ側は、日野にどういう印象を持ったのか。当時BKコーチを担当していた堀川隆延監督兼GMはこう振り返った。

「清宮さんと映像を観終わると、2人で顔を見合わせ、“面白い! 実際に観てみたい”ということでトライアウトに来てもらいました」

 

 トライアウトで叩き出した自己最速

 

 静岡県磐田市で行われたトライアウトのことを、日野は「ラッキーでした」と懐かしむ。50m走のタイムを計測する際に使用する機械の調子が悪く、手動のストップウォッチで測ることになったのだ。

「中村さんは『足の速いフッカーを送るから』と僕を推薦してくれていました。だからスピードは特にアピールしなければいけなかったんです」

 日野が叩き出した記録は“生涯最速”の6秒2だった。本人が「ラッキー」と口にするのは手動で測る場合、誤差が生じる可能性があるからだ。

 

 堀川監督の目にも、日野のスピードは際立って映ったという。

「プレー映像を観て、面白いと思ったのはラインブレイク能力とスピード。実際に観てもその印象は変わりませんでした。“走り方はカッコ悪いけど速い。自分の強みをよく理解している賢い選手だな”と」

 持ち味のスピードを十二分にアピールできた日野は晴れてヤマハ入りを勝ち取ったのだった。

 

 入団後、ルーキーイヤーの開幕戦でスタメン起用されたが、TLの壁は厚かった。日野が苦戦する様子は、BKコーチを務めていた堀川監督の記憶にも残っている。

「当時、ヤマハのフロントロー(FWの第1列)のセレクションは“スクラムが強い人間が試合に出る”という掟がありました。入団1年目の日野は、ヤマハのスクラムを体得するのに苦労し、涙を流しながらスクラムを組んでいた印象を持っています。ラグビーというスポーツにおいて唯一逃げ場がないのがスクラムです。その後、彼が先発で試合に出場できるようになったのは、課題を克服し、努力し続けた結果だと思います」

 

 FW8人の力を集約させるスクラムは、“慎さん”こと長谷川コーチがつくり上げたものだ。当時の指揮官・清宮氏は“スクラムの強いチームが勝利する”との哲学を持っていた。ヤマハスタイルの礎と言ってもいいだろう。大学までの日野は、スクラムが勝敗を分けるほどの重要性があるとは理解していなかった。

「大学時代、僕は足の速さや器用なことを売りにしていたHOでした。慎さんからは『ヤマハのHOとしてのベースがなければ試合に出られない』と言われたことが印象に残っています。ベースがなければ個性は光らない。それまで自分は個性ばかり磨いてきていました。ヤマハではHOとしてのベースとつくってもらった。ベースを引き上げてもらったのは、ヤマハのおかげです」

 

 ラインアウトでスローワーを務め、スクラムでは最前列の中央に位置するHOはセットプレーのキーマンと言っていい。当時、日野に投げかけた言葉の意図を長谷川コーチからも聞いた。

「日野は足が速くタックルにもよくいくラグビーの上手い選手でしたが、ヤマハのスクラムに慣れてなかった。スローイングも当時は不安定でした。ヤマハはセットプレーを大事にする文化があります。試合に出ていた加藤圭太や名嘉翔伍とはセットプレーで大きく差があった。日野には『ヤマハでは、セットプレーが追いついてからでないと個性は存分に発揮されない』と言ったのを覚えています」

 

 ヤマハのスタッフ陣にベースを引き上げられた日野はコンスタントに背番号2を勝ち取るようになっていった。14-15シーズンに日本選手権優勝を経験した日野は、16-17シーズンにはトップリーグで2桁トライを記録し、ベストフィフティーンに輝いた。

 

“繰り上げ”でトップ14デビュー

 

 代表初キャップはウェールズとのテストマッチだ。16年11月、ジャパンのヨーロッパ遠征に帯同した。後半19分、ウェールズラグビーの聖地ミレニアム・スタジアムのピッチに立った。試合は終了間際のDGで30-33と惜敗したものの、大観衆を前での初キャップにも慌てずプレーできた。

「ヤマハのメンバーが多かったので落ち着いてプレーができました。セットプレーに関しては、いつも通りのことをいつも通りのメンバーとやるだけで良かった」

 

 その後は、ジャパン強化のためにSRに参戦したヒト・コミュニケーションズサンウルブズに加わった。17年は8試合に出場し、世界最高峰のリーグを体感した。19年W杯日本大会のスコッド入りはかなわなかったものの、フランス行きのチャンスを得た。トップ14の前年王者トゥールーズから人材交流の一環で“単身留学”の話が舞い込んだのだ。願ってもないチャンスに日野はふたつ返事で引き受けた。

 

 8月に渡仏し、練習に参加していた日野はプロ契約を結ぶことになった。ジュリアン&ギヨームのマルシャン兄弟らが故障していた。フランス代表に招集される選手もいたため、HO不足は深刻で補強が急務とされていた。この時点でポジションが確約されていたわけではない。だが、日野にチャンスが巡ってくる。

「開幕戦にスタメン出場すると見られていた若手が、開幕1週間前のプレシーズンマッチでケガをしてしまったんです。補強もビザの関係などで開幕戦には間に合わない。チームに残っているのは18歳の選手と僕だけだった」

 

 わずか2週間の準備期間での、トップ14デビュー。“繰り上げ”で開幕戦のスタメン入りを果たした。これは日本人初の快挙だ。フランスには約3カ月滞在し、リーグ戦3試合に出場した。「本当に貴重な経験でした」。フランス語もままならない中での単身留学だった。チームに馴染むことができたのは彼の明るいキャラクターも大きかったが、渡仏前の予習も大きかったという。

「ヤマハにリッチー・アーノルドというLOの選手がいて、前年までトゥールーズに所属していたんです。彼と2人でフランスに行くことになっていたので、事前にラインアウトのコールやムーブを教えてもらうことができた。最低限のことを日本で予習することができていたので、スクラムやフィールドでのプレーに集中することができた。すんなり入れたのは彼のサポートもあったからですね」

 

「しがみつくようにやってきた」と自らを評す日野には、運を引き寄せる力があるのか。ヤマハ入り後、彼を指導してきた2人の恩師はこう証言する。

「明るくてポジティブ。全力を出し、毎回やり切る姿勢を見せる。そのモチベーションは『ラグビーが好き』なので飽きることなく継続できる。その姿勢はブレない。いつもそうやって準備をしているから、日野には人よりも少し多くチャンスがくるのだと思います」(長谷川コーチ)

「“努力は運を支配する”。亡き恩師、宿澤(広朗)さんがおっしゃっていた言葉です。スポーツの世界で結果を出す人間に努力をしない選手はいません。これは脳科学においても証明されてきています。運を引き寄せるのではなく、結果を出すために誰よりも努力し続け、常に高い目標に挑戦し続けるからこそ日野は成長し続けているのだと思っています」(堀川監督)

 

 継続は力なり――。それを体現してきた男は三十路に突入したが、成長に対する意欲は全く衰えない。「長所を伸ばしていきたい。30歳になりましたが、足が遅くなっているとは感じない。もっと速くなってやるという気持ちもあります。スクラムに関してもまだまだ成長していきたい」。3年後のW杯はフランス開催だ。ジャパンへの復帰も当然諦めていない。「日本がトゥールーズで試合することがあれば現地の人たちは僕のことを応援してくれると思う。そう考えると夢がありますね」。迷いはない。日野は夢に向かって、突き進む――。

 

日野剛志(ひの・たけし)プロフィール>

1990年1月20日、福岡県生まれ。4歳でラグビーを始める。筑紫高校、同志社大学を経て2012年、ヤマハ発動機ジュビロに加入。16-17シーズンにはリーグ戦15試合で11トライを記録し、ベストフィフティーンに選ばれた。16年11月のウェールズ戦でジャパン初キャップを獲得。17年にはスーパーラグビーのヒト・コミュニケーションズ サンウルブズのスコッドに入り、8試合プレーした。19年、フランスのトップ14のトゥールーズに加入。開幕戦を含む3試合に出場した。身長172cm、体重100kg。ポジションはフッカー(HO)。

 

(文/杉浦泰介)