ダイヤの原石を見抜くオトコたちの熱い闘い<後編>
ドラフト外の星といえば元ジャイアンツの西本聖だろう。彼は1974年に入団して、ドラフト外としては史上最高の165勝をマークした。スカウトにしてみれば鼻高々の指名である。
<この原稿は1999年6月23日号『Tarzan』(マガジンハウス)に掲載されたものです>
西本を発掘したジャイアンツの伊藤菊雄スカウト部長は語っていた。
「彼は私が1年の春からマークしていたピッチャーで、地区予選のたびに“早く負けろ、早く負けろ”と念じていた。その後、彼はどんどん悪くなり、他球団の評価も下がっていったが、私は1年の春の一番いい時期を知っていたため獲得するのにためらいはなかった。
ボールは140キロ弱でも、低目にビシビシ切れのいいボールを投げる。フォームにもなおすところがない。これは体力さえつけばモノになるなと。体に天性のバネのようなものを感じました」
ドラフト6位で入団し、ジャイアンツのエースに成長。その後“空白の一日”を利用して入団した江川卓の身代わりとしてタイガースに移った小林繁も伊藤が発掘した“無名選手”のひとり。
「小林はマウンドまで行く姿が実にいきいきしていて躍動感を感じさせてくれた。実は小林、社会人に入りたての頃は敗戦処理で使われていました。他球団のスカウトはお目あての選手だけ見て食事に出かけていった。私はずっと最後まで試合を見ていた。その時に現れたのが小林です。スピードはそうありませんでしたが、バネのかたまりのようなピッチングが気に入ったんです」
同じスカウトでも人気のあるセ・リーグに比べると、人気薄のパ・リーグのスカウトは苦労を余儀なくされることになる。
「セ・リーグなら行くが、パ・リーグの指名ならお断り」
未だに、そう明言する選手は少なくない。
そんな不利な状況下にあって、日本ハムファイターズの三沢今朝治スカウト部長はドラフト外入団のタイトルホルダーをふたりも発掘している。岡部憲章(81年最優秀防御率)と松浦宏明(88年最多勝)だ。
少々、得意気に三沢は語ったものだ。
「松浦は私の最高傑作といっていいでしょう。高校も千葉の船橋法典高という無名校です。最初に彼を見たのは高校2年の時かな。体は小さい(身長175センチ、体重75キロ)けれど、ヒジやヒザがやわらかく、しかも球持ちがよかった。一目見た瞬間、“あっ、この子は伸びるな”と思いましたよ。
特に気に入ったのが、リリース・ポイントです。この点がしっかりしているというのは下半身に粘りがあり、加えて指先の感覚がいい証拠。長年、野球を見ていますが、指先の感覚だけは天性のもの。これだけは教えてできるものじゃない」
――ボールの速さや回転よりも、指先の感覚が大切であると?
「そうです。速さはひとつの目安に過ぎません。どんなに速くても棒球じゃ打ち頃になってしまう。回転も同じで、スピンが利きすぎると、当たっただけで遠くまで飛んで行ってしまう。だからこの2点、まわりがいうほど重要視していません。
それよりも指先の感覚です。というのも、指先に粘りがあるといろんなことに対応できるからです。ひとつ例にあげれば、バッターが打ち気にはやっている場合、テークバックの瞬間にかすかに抜いたりひねったりすることで難を逃れることができる。
ここがプロで活躍できるかどうかの分岐点です。ボールの縫い目と指の皮膚とで会話のできるピッチャーこそがプロで成功を収めることができるのです」
敏腕で鳴る三沢にも、悔しくて眠れない日々があった。
イチローだ。
実は三沢はイチローの実力に早くから目をつけ、父親にも食い込んでいた。
「後ろから見た時のイチローは腕の延長がバット、まさに一本の線になっていた。ヘッドが落ちず、常に内からバットが出てくるので、振り遅れたとしても外角のボールがファウルにならない。しかもインパクトの瞬間、体がムチのようにしなる。すべてが完成品でした……」
にもかかわらず、球団の都合で、ファイターズよりも先にブルーウェーブがイチローを指名(4位)してしまう。
三沢は「しまった!」とテーブルを叩いて悔しがったが、もう後の祭りだった。
「イチローのお父さんから“三沢さんがとってくれると思ったのに……”と言われたんです。お父さん、辛そうでしたよ……」
いや、本当に辛かったのは“金の卵”を目の前で逸した三沢の方だったのではないか。
判断よりも決断――。
この業界の格言である。
(おわり)