2002年1月10日、東京は朝から冬の青い空が広がっていた。ぼくは成田空港からフランクフルト行きのルフトハンザに乗った。正月明けの客たちだろうか、ほぼ満席だった。フランクフルトで飛行機を乗り換えてマドリードに到着。別便でマドリード入りしていた要田勇一、ホテルで納谷聖司と合流した。翌朝、空港でラコルーニャ行きの飛行機を待っていると、500円玉を握った要田が困った顔で近づいてきた。

 

「日本に電話をしたいんですけれど、どうしたらいいんですか」

 

 要田にとって、チームの遠征以外で初めての国外旅行だったのだ。

 

 ラコルーニャの空港では納谷が世話をしている日本人のサッカー留学生が待っていた。小さなバスで私立学校の寮に向かった。納谷は学生寮の一部を留学生用に借りていた。学生寮には食堂が併設されていた。昼時の食堂は、学生たちでごったがえしていた。その中に混じって食事を取ることになった。

 

 以前にもラコルーニャを訪れていたぼくは、要田の案内がてら、市街地を散歩した。大西洋に面したラコルーニャは白っぽい建物が多く、清潔な印象の街である。ガリシア州第2の都市ではあるが、静かな、穏やかな空気が流れている。1月だというのに少し歩くと汗ばむほどの陽気だった。

 

 寮に戻ると、納谷が「知良のところに行こう」と言い出した。納谷の甥、ヴィッセル神戸に所属していた三浦知良が、開幕までの期間を利用してトレーニングのため、隣町のラシン・デ・フェロールの練習に参加していたのだ。Jリーグと違ってスペインはシーズン中である。練習参加という形で契約外の選手を受け入れるのは異例だった。そのため現地の新聞では三浦がフェロールに移籍、という記事が出ていた。

 

 タクシーの中で要田の顔がこわばっていることに気がついた。三浦は彼にとって少年時代からの憧れの選手だった。この時期、三浦がフェロールに滞在しているようだという話はしていた。日本以外の場所で会えば印象に残る、丁度いいんじゃないかと、ぼくは軽口を飛ばしていた。ラコルーニャについてすぐに会えるとは思っていなかったのだ。

 

 納谷は三浦が泊まっているホテルでタクシーを降りると、大股で歩きエレベータに乗った。部屋の前で「おい、知良」と声を出してノックをした。扉は少し開いていた。中を覗くとマッサージ用ベッドに三浦が寝そべり、日本人と思われるトレーナーが身体をほぐしていた。わざわざ日本から、専属のトレーナーを連れてきていた。最善の環境を整える、三浦らしいとぼくは感心した。

 

 同行していた要田も同じことを感じていたようだ。彼はこう振り返る。

「あれを見たとき、“あっ、プロは違う”って思いました。後からトレーナーの方から練習前、練習後は毎日ケアをしていると聞きました。ぼくもプロ選手として神戸と横浜FCにいましたけど、あそこまで自分の身体をメンテナンスしている人はいなかった。すごく衝撃を受けました。ぼくも単純なんで、あれから練習後のストレッチは入念にやるようになりました。あのときの印象は本当に強かったです」

 

 現在、三浦が現役選手、要田は下部組織のコーチとして同じ横浜FCに所属しているのは、不思議な縁である――。

 

 情熱溢れる“髭のリチャード”

 

 さて――。

 

 ラコルーニャの日本人留学生たちは力量に合った地元のアマチュアクラブに散らばり、週末に練習、試合に出場していた。加えて、平日朝は、留学生だけで練習をしていた。彼らを指導していたのが、デポルティーボ・ラコルーニャのスタッフである2人のリチャードだった。

 

 留学生たちは、2人を髭のリチャード、髭なしリチャードと区別していた。髭のリチャードこと、リチャード・モワールは現役時代、デポルティーボ、バジャドリッドでプレーしたディフェンダーで、強化部長を務めていた。

 

(写真:髭のリチャードことリチャード・モワール。撮影筆者。2004年9月撮影)

 髭のリチャードはサッカーに溢れるほどの情熱を持った男だった。ラコルーニャ滞在中、ぼくもしばしば練習に参加していた。ぼくのプレーにさえ大声を出して叱った。もはや選手になる気はないのだが、と心の中で苦笑いしていたものだ。

 

 1906年設立のデポルティーボ、その歴史のほとんどは2部と1部を行き来する「エレベータ」クラブだった。その状況を変えたのが、1988年に会長になったアウグスト・セサル・レンドイロである。91―92年シーズンに1部へ昇格。翌92―93年シーズンから2人のブラジル人、ベベットとマウロ・シウバが加わった。ベベットは得点王、クラブは3位という好成績を残した。

 

 ベベットは90年のワールドカップイタリア大会に出場していたが、中心選手ではなかった。デポルティーボはレアル・マドリードやバルセロナのような大都市のビッグクラブほどの資金力はない。そのため、まだ評価の定まっていないブラジル選手を狙ったのだ。

 

 96―97年シーズンには、パルメイラスからリバウドを500万ドルの移籍金で獲得している。翌シーズン、リバウドを2500万ドルでバルセロナに売却した。翌97―98年シーズンにはジャウミーニャと契約した。この左利きの天才プレーヤーは99―00年シーズンのリーグ制覇の中心選手となった。

 

 デポルティーボのもうひとつの鉱脈は“降格クラブ”だった。99年にテネリフェが2部に降格した際、ひとりのオランダ人フォワードに目を付けた。その選手、ロイ・マッカーイは、デポルティーボで花を開かせ、オランダ代表に定着することになった。

 

 レンドイロの下で現場を任されていたリチャードは、精神的に波のあるジャウミーニャと向き合い、また、スペイン全土の1部、2部クラブへの目配りも欠かさなかった(後にジャウミーニャが監督のハビエル・イルレタに頭突きしたのは、彼がデポルティーボを離れていた時期だった)。いわばデポルティーボの要である。

 

 フォワードで勝負したい

 

 留学生の中には高校時代に全国でそれなりの結果を残していた選手もいた。しかし、どの世界でもプロとアマの壁は歴然としているものだ。要田の力は明らかだった。しばらくしてぼくはリチャードから呼ばれた。

 

「要田は力があることは分かった。彼は速くて、左右の足を使うことができる。サイドをやる気はないか」

 

 ボールキープ能力に優れた選手を集めたレアル・マドリードやFCバルセロナが目立ちがちではあるが、リーガ・エスパニョーラのほとんどのクラブは堅守速攻、なるべく手数を掛けずにボールを前に進めることに力点を置く。

 

 要田の移籍先として想定していた2部クラブはその傾向がさらに強くなる。前線に置いた大きなセンターフォワードにボールを当てて、両サイドに散らす。パスを受けたサイドの選手はクロスボールを上げて、センターフォワード、あるいは後ろから飛び込む選手が競って得点を狙う。

 

「今、2部の多くのクラブはフォワードに190センチほどの大きな選手を起用している。東欧には足元の技術はそれほどでもないが、大きくて強い選手は転がっている。彼らを安く獲ることができる」

 

 一般的にスペイン人選手は日本人が好む小技、器用さには欠けるが、ロングキックの精度が高い。彼らの特性に合ったサッカーだった。デポルティーボのようなクラブはそこにジャウミーニャのような独特のリズムを持つ外国人選手でアクセントをつけていた。

 

 こうしたサッカーの中で身長170センチそこそこの要田が居場所を見つけることが難しいとリチャードはいうのだ。

 

 ぼくは要田にリチャードの言葉を伝えて、サイドをやる気はないかと訊ねた。すると要田は「ぼくはフォワードで勝負したいんです」と控えめながら、きっぱりとした調子で返した。そうでなければ、フォワードではない。ぼくたちはその考えを尊重することにした。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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