宮本葉月(近畿大学水上競技部/高知SC/高知県高知市出身)第2回「きっかけは高所とトランポリン」
高知県高知市出身の宮本葉月は幼少期を振り返り、「結構やんちゃだったと思います」と笑う。「高い所が好きで、木登りばかりしていました」。木から落下し、ケガをしても高い所への恐怖心が芽生えることはなかった。母親とスーパーに買い物に行けば、高い所の商品を取るために用意された脚立に登っていたこともあったという。
そんな宮本が飛び込み競技を始めたのは小学3年の秋だ。高い所が好きだった彼女を、先に飛び込みを始めていた2歳上の知人が誘ったのだ。
「『冬はトランポリンもできるよ』と言われ、高いところも好きやし、私はトランポリンがやりたくて始めました」
きっかけは飛び込みよりもトランポリンに惹かれたことが大きかったというのである。
飛び込みを始めるまでは、幼稚園の年中からバレエを習っていた。飛び込みとバレエ。1カ月ほど並行して習っていたが、飛び込み一本に絞った。
「両方を続けていくのは大変でした。どちらかに絞らなければいけないとなった時、バレエではめちゃめちゃ怒られてばかりで“辞めたい”と思っていたんです。飛び込みは楽しく、周りからも褒めてもらえました」
バレリーナを目指して約5年続けていたことで得た柔軟性が、飛び込みに生きたという。
「みんなは泣きながら柔軟をしていました。私にはそれがなかった。飛び込みは腰を痛めやすいのですが、私は特に腰が柔らかく、他の人より負担が少なかったんです」
宮本が現在も所属する高知スイミングクラブ(SC)は春野総合運動公園プールが完成した1989年にスタートした。県内唯一の専門クラブで、飛び込みの名門・天理大学出身の瓶子勇治郎氏が夫妻で指導に当たっている。女子の飛び込みは大所帯ではなかったものの、全国大会でも結果を残す強豪だった。
宮本は他の先輩たちにも尻込みせず、“この人たちみたいになりたい”とモチベーションとしていた。彼女が初の全国大会出場を果たしたのは、東京で行われた全国JOCジュニアオリンピックカップ夏季大会だ。9~11歳の部に出場した宮本だったが、まだ競技を始めたばかり。周囲からは「出られただけでラッキー。予選落ち」と見られていたという。
変わり始めた競技への姿勢
これが負けず嫌いの宮本を燃えさせた。「『決勝は無理』と言われることがめちゃくちゃ嫌でした」。1m飛板飛び込みで8位入賞を果たしたのだ。自信を手にした彼女は、その後もコンスタントに全国大会で結果を残すようになる。
順調に力を付けていった宮本。6年になると、それまで指導を受けていた女性コーチから瓶子コーチが担当するようになった。
「瓶子コーチは静かに怒るタイプ。ウワーッと怒られることには慣れていたのですが、静かに怒られることはなかったんです。だから、めちゃめちゃ怖かった」
瓶子コーチの指導は「最初は言われることが難しく、分からなかった」というが、その年、千葉で行われたJOCジュニアオリンピックカップ夏季大会の12~13歳の部で高飛び込みを制し、1m飛板飛び込みは2位という好成績を収めてみせた。
特に高飛び込みの優勝は、板飛び込みを得意とする宮本にとっては「すごくびっくりしました」と“うれしい誤算”だった。コーチや両親も驚く優勝だったという。一方、得意種目の2位は「すごく悔しかった」と言い、小学生最後の夏はうれしさと悔しさが混じったものとなった。
小学校卒業後、中高一貫校である土佐女子に進んだ。継続して高知SCで練習を積んだ。最初は、難しく感じた瓶子コーチの教えも、徐々に理解できるようになってきた。
「飛んだ後に“こうやったかな”と思うことが、瓶子コーチにも言われ、考えや感覚が一致するようになりました」
中学生になってからは、「言われることをただやるだけではなく、自分で考えるようになった」という宮本。さらに飛び込みという競技が楽しくなり、“もっと上手になりたい”との思いを強くした彼女は、さらに活躍の舞台を広げていくのだった。
(第3回につづく)
<宮本葉月(みやもと・はづき)プロフィール>
2000年12月25日、高知県高知市出身。小学3年で飛び込み競技を始める。土佐女子中・高を経て、近畿大学に進学。全国中学校体育大会、全国高校総合体育大会、日本学生選手権大会と各カテゴリーの飛板飛び込みを制した。高校2年時には1m板飛び込みと、シンクロナイズド3m板飛び込みで日本選手権を制覇。1m板飛び込みは現在まで3連覇中。18年アジア競技大会(インドネシア・ジャカルタ)、19年世界選手権大会(韓国・光州)に日本代表として出場した。20年2月、国際大会派遣選手大会のシンクロナイズドダイビング3m板飛び込みで1位。東京オリンピックの選考会となるW杯出場を決めた。身長152cm。
(文/杉浦泰介、写真/近畿大学提供)