巨人の原辰徳監督は6日、甲子園球場での対阪神戦で、0対11と大差がついた8回裏1アウトから内野手・増田大輝をマウンドに送った。コロナ禍によりスケジュールがタイトな今季、リリーフ陣の肩を休ませるための策だった。後日、この采配について賛否がわかれた。かつて、巨人には批判覚悟で改革を試みた監督がいた。1965年から73年にかけてV9を達成した川上哲治である。川上が入れた改革のメスを11年前の原稿で、振り返ろう。

 

<この原稿は「フィナンシャルジャパン」2009年10月号に掲載されたものです>

 

 今年は巨人にとって球団創設75周年の節目の年にあたる。巨人の歴史はそのままプロ野球の歴史であったと言っても過言ではない。

 

 長い球団の歴史の中でも、ひときわ眩しい輝きを放っているのが1965年から73年にかけて達成したV9である。

 

 チームを指揮した川上哲治にインタビューしたのは、今から20年前のことだ。その頃は西武ライオンズの黄金期で、監督の森祇晶は川上ゆずりの「管理野球」をスローガンに掲げていた。

 

 川上の眼鏡の奥の目がギロッと光ったのは私が「管理野球」について質した時だ。川上は「あれは私の発明品。もし私が今監督をしてユニホームを着ていたら、同じことは2度とやらんよ」と言い放ったのだ。名将の矜持が垣間見えた。

 

 過去を振り返れば、川上ほど新しい戦略や戦術に挑戦した指揮官はいない。

 

 たとえば65年に導入したクローザー制度。川上は先発投手だった宮田征典をリリーフの切り札として起用し、日本で初めて“投手分業制”に成功した。

 

「川上さんこそ日本一の監督」と言ってはばからない東北楽天の野村克也監督は自著『巨人軍論――組織とは、人間とは、伝統とは』(角川oneテーマ21)の中で、こう述べている。

 

「そのころの日本の野球は先発・完投があたりまえで、リリーフはいわば2線級投手の仕事。勝ち試合になれば、前日登板したエースが抑えの切り札として登場することもめずらしくなかった。そんな時代に川上さんは抑えの専門家を置くことにしたのである。

 

 結果、宮田は『八時半の男』と呼ばれ、いまでいうクローザーという役割をまっとうした日本で最初の投手となった」

 

 近年、流行したスモールベースボールの原型、つまり近代野球のテキストともいえる「ドジャースの戦法」を日本で最初に取り入れたのも川上だった。

 

 たとえば1死1、2塁の場面。打者は最悪でも塁上の2人のランナーを進塁させなければならない。そのためには右方向にゴロを転がすのが得策だ。これまで、個人の判断でそれをやる選手はいた。しかしベンチの指示として、それを徹底させたのは川上が初めてだった。

 

 これについても野村は次のような賛辞を寄せている。

「この、『自分たちはほかより進んだ野球をやっている』という意識を選手が持つことは、チームづくりにおいて非常に大切なことである。選手に自信を与えるだけでなく、監督に対する信頼と尊敬が生まれ、相手チームに対しては優越感や優位感を感じさせることができる」(前掲書)

 

 そして、こう続けている。

「川上さんの革新性はそれだけでは終わらなかった。戦術や戦法はどんなに斬新であっても相手から研究され、同じことをやられてしまえばアドバンテージは失われてしまう。勝ち続けるには、それをベースにさらに新しいものを加え、磨いていかなければならない。川上さんは、べロビーチキャンプで導入したドジャースの戦法に、毎年のように新しい戦術やスタイルを加えていった」(前掲書)

 

 このように川上野球はイノベーションに次ぐイノベーションで、一度たりとも歩みを止めなかった。組織とは生命体だ。勝ち続けるためには進化の速度をあげていかなくてはならない。


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