1990年代前半、あのマイク・タイソンと2度にわたって死闘を演じた伝説のボクサーがいる(1戦目は7回TKO負け、2戦目は判定負け)。ジャマイカ生まれのカナダ人、ドノバン・ラドック。ニックネームはレーザー。すなわちカミソリである。

 

 カミソリの所以は、相手の視界から消える左スマッシュ。アッパーカットとフックの中間の角度から繰り出される必殺のブローだ。再戦ではタイソンにアゴを砕かれたが、お返しに鉄人の鼓膜を破壊している。

 

 警戒していても、よけ切れない。対戦相手にすれば“幻の左”だが、これには理由がある。拳の出所が見えにくいことに加え、対戦相手によると「スイングの軌道が読めない」というのだ。確かにビデオで確認すると、ラドックは試合によって、あるいはラウンドごとに微妙にヒジの角度やスイングの軌道を変えていることがわかった。その意味でラドックはチューニングスキルの達人でもあったのだ。

 

 前置きが長くなった。12日、前人未到の通算350ホールドに到達した北海道日本ハムのサウスポー宮西尚生の腕の振りに、ラドックのスマッシュが重なる。ストレートとスライダー。たった2つの球種ながらヒジの位置、腕の角度を微妙に変えることで、豊富なバリエーションを獲得している。加えて言えば、彼はリリースポイントすら、一定していない。これはピッチングの常識からすれば邪道である。しかし逆もまた真なり。そこに彼の生きる道があった。「守破離」の精神ではないが、彼は一度身につけた基本(守)を捨て去り、イノベーション(破)につぐイノベーションで、オリジナリティー(離)を確立するに至ったのである。

 

 独自とも言える変幻自在の投球術について、彼はこう語っている。<スリークォーターでもサイドスローでも、ここでしか投げられないというポイントを作らない。横の角度をつけたいときは手を下げてサイド。力を入れて投げたいときは上にするなど、相手バッターとのタイミングをズラすために腕の角度を変えている。>(NHK・BS「球辞苑」2017年2月18日放映)

 

 歴史とは異端が正統を凌駕していく、その営みの謂である。コロナが明けたら、「ミヤにしか分からない境地」(栗山英樹監督)に野球好きを案内してもらいたい。そこで、“幻の左”の謦咳に触れてみたい。

 

<この原稿は20年8月19日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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