皆さん、こんにちは! 2カ月ぶりの白寿生科学研究所・小野でございます。前回のコラムを執筆した7月はまだ梅雨の真っ只中でしたが、結局梅雨は8月まで明けず、明けて夏が来たと思ったら連日の猛暑にプラスして新型コロナウィルスの第2波と思われる感染拡大というダブルパンチ。そんなこともあって、春夏秋冬のうちで一番大好きな季節なのに今年に限っては淋しい夏になってしまいました。皆さんにとって2020年の夏はどんな日々だったでしょうか?


 夏の全国高校野球選手権大会が行われない今年は、春の選抜大会に出場予定だった32校が8月10日から甲子園球場で交流試合を行いました。私はテレビで両校1試合のみの戦いの中、笑顔やひたむきな姿勢で白球を追いかけている姿を見て例年以上に感慨深く、自分自身の過去を振り返っていました。

 

 私は秋田で生まれ、3歳からボールを持ち始めました。それから野球が大好きになり、小学4年生で野球部に入部した頃から大きな夢として「甲子園出場」と「プロ野球選手」の2つを抱いていました。

 

 甲子園に出場したい、甲子園のマウンドに立ちたいと思い描けるようになったその頃から、サボり癖のあった自分が少しずつでしたが努力できるようになっていたなと、今更ながら思い出します。その努力を積み重ねなければ甲子園には行けないと、幼い子供ながら思っていたのでしょうね。

 

 プロ野球選手になりたいという夢は、小学校低学年頃には既に持っていたと母親から聞きました。地元新聞のスポーツ欄を見て「プロ野球選手になってお母さんに契約金をあげる!」と大きな声で話していたそうです(笑)。

 

 小学校の時に心に芽生えた夢は、年齢を重ね身体がどんどん大きくなるにつれ徐々に具体的な目標に変わりました。漠然と思っていたことを現実的な形にしていこうと、高校2年生くらいの年に考え始め、その頃には自分自身でつくり上げた目標、「プロ野球選手になる!」と夢に描いたことを必ず成し遂げようとスキルアップのために貪欲な姿勢で練習に励んでいたことを鮮明に覚えています。

 

 その頃には「自分はプロ野球選手になる! 絶対になってみせる」という信念を持ち活動をしていたので、成長するスピードもグンと伸びたように思えます。どんな逆境が来ようが跳ね返してみせるという強い決意と、投手としてもっともっと成長したいという考えの中で一心不乱に野球を追い求めました。その情熱があったからこそ、プロ野球選手という夢・目標を実現できたと思っています。

 

 漠然と何となくで思い考えていた小さい頃。想像から現実的に変わり、本気で考え行動に移すことができた学生時代。信念の有無により自己成長のスピードがここまで違うのかと、今だからこそ感慨深く思い出されます。

 

 私は現在、主に大学生と関わり、彼らの就職支援を行っていて、職歴ももうすぐ3年が経とうとしています。まだまだ勉強不足な部分ばかりですが、気になるのが「夢や目標がない」と答える大学生が多く存在するということです。

 

 野球部を中心に大学訪問をしていますが、学生に夢や目標は? と聞いても6~8割の学生からは明確な返答が得られません。原因は多々あると思いますが、高校野球の場合は「甲子園」という誰もが目標とし小さな頃から考える存在があるからこそどんな苦しい練習や生活に耐えられたと考えられます。その後、大学に入り甲子園に変わる新たな目標を持ち、学業と部活動の両立を図っている学生は多いのかと聞かれれば、非常に少ない数になると答えるしかありません。

 

 高校野球は指導者や関係者により管理されている時間が多く、また集団行動や規律を重んじ活動することがほとんどです。それもこれも全て甲子園のため。そしてもっと高みを目指し大学野球に飛び込むのでしょうが、そこでは自発、自主性の向上や新たなる目標をつくらなければ、4年間は無駄な時間になってしまうと私は思います。

 

 野球を通じ私が得たのは、明確な夢や目標を持ち、それに向かってどう行動すべきかを考えること。それが何事においても重要だということです。それを今の仕事を通じ未来ある若人の心に問いかけながら、多くの学生に気付きを与えれるようアドバイスしていきたいと考えています。野球で培い、磨いてきた非認知能力(協調性・継続性・自制心・礼儀・感謝する心)を今後の人生のために活かせられるように、そして野球人が社会に出て活躍できるように頑張っていきたいと思います。では、また次回。

 

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


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