1968年といえば、川上巨人が4連覇を達成した年だ。同年秋の日米野球で58年以来、2度目の来日を果たしたのが67年に続いてナショナル・リーグを制覇したセントルイス・カージナルスである。

 

「巨人・大鵬・玉子焼き」世代の私はご多分に漏れず巨人ファンだった。生まれ故郷の愛媛において民放は日本テレビ系の1局(南海放送)しかなく、誰もがYGマークの帽子を被って登校していた。今となっては笑い話だが、昔はあれが制帽だと信じて疑わなかった。

 

「週刊少年マガジン」にて劇画「巨人の星」がスタートしたのが66年である。巻末には野球に関する読み物が多く、68年の秋、日米野球を前に、「巨人VSカージナルス徹底比較」なる特集が組まれた。

 

 概ね、こんな内容だった。堀内恒夫とボブ・ギブソンは、どちらが速い球を投げるか。長嶋茂雄とオーランド・セペダは、どちらが勝負強いか。そして柴田勲、高田繁、ルー・ブロックの中で、最も足が速いのは誰か。

 

 果たしてカージナルスは巨人、全日本、巨人連合軍を圧倒した。13勝5敗。戦績以上の実力差が感じられた。ボブ・ホーナーではないが「地球の裏側のもうひとつの違う野球」の存在を初めて思い知らされた。

 

 スター揃いのカージナルスの中でも、とりわけ輝いていたのが6日、81歳で世を去ったブロックである。5本塁打、3盗塁。文字通りの“核弾頭”だった。

 

 巨人のルーキー高田には「レセプションで(ブロックと)足裏を合わせた」記憶が残っている。「僕にとっては比較対象というより雲の上の人。驚いたのは足よりも肩。後楽園ではレフトの定位置より、随分後ろに守っていた。タッチアップで悠々セーフと思っていたらアウト。殺されたのは僕。一瞬、なんでアウトなのかわからなかったな」。ギブソンについても一言。「長いこと野球をやってきて、ボールが怖い、と感じたのは彼だけ。(8月31日に他界した)トム・シーバーとも対戦したけど、あそこまでのボールではなかった」

 

 ブロックに話を戻そう。彼は「巨人の星」にも登場している。星飛雄馬が開発した大リーグボール1号によるメジャーリーグ最初の犠牲者こそ、誰あろう彼なのだ。このように劇画の効果も相まって、私にとってブロックは今もって特別な選手である。ご冥福を祈る。

 

<この原稿は20年9月9日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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