巨人のエースとして長嶋茂雄監督の初優勝、連覇に貢献した新浦壽夫氏。しかし、その24年に及んだ現役時代は苦難と苦悩の連続だった。波瀾万丈の野球人生を、当HP編集長・二宮清純とともに振り返る。

 

二宮清純: 83年オフに韓国プロ野球への移籍を決断し、サムスン・ライオンズに入団します。マスコミを含めて周囲も驚きの移籍でしたが、どのような経緯だったのでしょうか。

新浦壽夫: いちばんの理由は、長嶋監督からすすめてもらったからです。韓国プロ野球の上層部が長嶋さんの大学時代の知り合いだったようで、そのコネクションでサムスンに移籍しました。

 

二宮: 韓国プロ野球の発足は82年ですから、新浦さんが移籍したのは3年目。できたばかりの時期ですが、当時はどんな状況だったのでしょう?

新浦: 設備面の遅れは顕著でした。ブルペンが倉庫だったり、そのマウンドとホームベースの距離も適当だったり、日本では考えられない環境でした。ある球場では選手用のロッカーもなくて、狭い通路で着替えたこともあります(苦笑)。

 

二宮: 言葉も含めて、生活はどうでしたか。

新浦: 在日韓国人とはいえ、私は日本語しか話せません。韓国にもそれまで一回しか行ったことがなかったんです。当然、生活は大変でしたが、日本語がわかる選手がいて、通訳代わりになってくれたことは本当に助かりました。

 

二宮: 日本の野球とのいちばんの違いは何でしたか。

新浦: とにかく韓国はパワー重視です。投げるのも、打つのもパワーが大事。スライディングもスパイクの刃を向けてどんどん突っ込んでくる。自分の強さをアピールするようなプレーが目立ちました。当然、乱闘も日常茶飯事です。アメリカナイズされた野球への憧れがあったのか、審判もメジャーリーグのようなちょっと広めのストライクゾーンで、ピッチャーとしてはありがたかったですね。

 

二宮: 私は80年代、韓国によく取材に行ったのですが、観客も過激でしたよね。焼酎の瓶などを平気でグラウンドに投げ込んでいました。地域ごとの感情のぶつかり合いもあったようですが……。

新浦: それもあるし、やはり強いチームに対しては、韓国では逆にガッツをむき出しにして向かっていく感覚が強いです。

 

二宮: 罵声に近い野次も多かったように記憶していますが、新浦さんに対してはどうでしたか。

新浦: 言葉がわかりませんからね。野次らしきものが聞こえても、知らんぷりしていました(苦笑)。ただ、大量失点などふがいない試合だと、選手全員が韓国流の正座をしてファンに謝らなければならないんです。

 

二宮: ファンに謝るんですか! しかも正座とは……。

新浦: 謝れば静かに帰ってくれるんです。ただ私は、「それだけは勘弁してくれ」と言って、途中で免除してもらいました。もっとも、日本でも10連敗したら生卵をぶつけられた時期がありましたからね。メジャースポーツ化する過程において、仕方のないことだとも思います。

 

二宮: サムスンでの1年目は16勝、翌年は25勝、3年間で54勝20敗という素晴らしい成績でした。エースとして大活躍したわけですが、ひじの調子は改善したのでしょうか。

新浦: ええ、ひじはもちろん、肩もだいぶ回復していました。それまでのスタイルを少し変えて、変化球を中心とした技巧派を目指したことも大きかったと思います。

 

二宮: 今は多くの野球選手がメジャーリーグなど海外に出ていきますが、新浦さんは他国で野球をやった草分け的存在です。「郷に入れば郷に従え」という言葉もありますが、他国で活躍するためのコツは何でしょうか。

新浦: 私は逆に、郷に従ったらだめだと思っています。自分が大切にしていることは守るべきです。例えば、私は韓国にいた3年間、毎日、試合の3、4時間前からランニング、ダッシュをして腹筋・背筋をするという、基礎練習を繰り返しやっていました。

 

二宮: 韓国ではそうしたウォーミングアップはしないのですか。

新浦: 当時はそうした光景はほとんど見られませんでした。日本に戻って5~6年たったころ、当時のチームメートに会う機会があったのですが、「キムさん(韓国名)のやっていたことの大切さが、最近ようやくわかりました」と言ってくれました。

 

(詳しいインタビューは10月30日発売の『第三文明』2020年12月号をぜひご覧ください)

 

新浦壽夫(にうら・ひさお)プロフィール>

1951年5月11日、東京都世田谷区生まれ。在日韓国人で韓国名は金日融(キム・イリュン)。静岡県で育ち、静岡商業高校では68年の夏の甲子園に出場。1年生ながらエースとして活躍し、準優勝に貢献した。同年秋に高校を中退して巨人に入団。川上哲治監督下におけるV9最終年(73年)に先発ローテーション入りし、3勝を挙げた。75年に長嶋茂雄監督が就任するとエースとして期待されたが、2勝11敗と低迷。しかし、76年以降は79年まで4年連続2桁勝利を挙げるなど活躍。長嶋巨人の初優勝、連覇に貢献した。その後、ひじのけがなど不調が続き、83年に巨人を退団。長嶋のすすめもあり、84年からは韓国プロ野球のサムスン・ライオンズでプレー。3年間で54勝を挙げるなど、草創期の韓国プロ野球に名を刻んだ。87年、大洋(現・横浜DeNA)で日本球界に復帰すると、11勝を挙げてカムバック賞を受賞。90年まで左のエースとしてチームを牽引した。その後はダイエー(現・福岡ソフトバンク)、ヤクルトに移籍し、92年に現役を引退。現在は、野球解説者として活躍している。


◎バックナンバーはこちらから