日本女子ソフトボール界を代表する強打者・山田恵里。ミート技術の巧みさからついたあだ名は“女子ソフトボール界のイチロー”である。五輪はアテネ、北京の2大会に出場。北京五輪では、主将として金メダル獲得に貢献した。山田が五輪への思いを語った4年前の原稿を読み返そう。

 

<この原稿は「第三文明」2016年11月号に掲載されたものです>

 

二宮清純: 2020年の東京五輪追加種目にソフトボールが決まりました。待ちに待った決定だと思いますが、今のお気持ちを聞かせてください。

山田恵里: もちろんうれしいのですが、やはり8年間のブランクは長かったです。

 

二宮: ソフトボール競技は競技そのものが五輪からなくなってしまい、目標を見失った時期もあったのでは?

山田 それはありましたね。北京で金メダルを取って、世界一という最大の目標を達成したうえに、次の五輪はもうないという状況が待っていた。そこからは、モチベーションが上がらない状態が長く続きました。

 

二宮: 引退しようとは思わなかったですか。

山田 正直、(引退を)考えたことはあります。自分がなぜソフトボールをやっているのか、その意味がわかりませんでした。特に2009年~10年あたりは、何を考えながらプレーしていたのか、今も思い出せないくらいです。

 

二宮: 抜け殻のような感じでしょうか?

山田 そうかもしれませんね。あの頃は何も考えずに淡々とやっていたのだと思います。全国的に見ても、あの時期にソフトボールをやめた選手は、たくさんいたんじゃないかと。

 

二宮: 東京五輪の採用は決まりましたが、ロンドンやリオデジャネイロでも議論され、当落線上を行き来していました。当時は胃が痛くなるような心境だったのでは?

山田 そうですね。期待してはダメになる、というパターンを繰り返したので、今回も「八~九割は決まり」と言われても、正式発表があるまでは期待しないようにしていました(苦笑)。

 

二宮: 期待が大きいと、そのぶん落胆も大きくなりますからね。ともあれ、実施が決まって決意を新たにしている部分もあるんじゃないでしょうか。

山田 もう一度、こうして戦うチャンスが巡って来たので、しっかりつかんでいきたいと思います。年齢的にも東京五輪のときは三六歳。東京の後にまたソフトボールが採用されるかはわかりませんし、自身の集大成という気持ちで頑張ります。

 

二宮: 今、年齢のお話がありましたが、技術面や体力面で落ちたと感じることはありますか?

山田 若いころと比べると体力的には落ちている感じはありますが、技術面で衰えを感じることはありません。ソフトボールはあまり体力の関係ない競技なので、年齢的な心配はしていません。

 

二宮: ここで改めて、金メダルを獲得した北京五輪について振り返りたいと思います。五輪ソフトボールの決勝トーナメントは少し特殊で、ページシステムが採用されています。まず予選リーグの1位と2位、3位と4位がそれぞれ準決勝を行います。1位と2位の勝者が決勝に進み、敗れたチームは3位と4位の勝者との3位決定戦に臨む。敗者が銅メダルとなり、勝者が決勝に進むかたちです。

山田 私たち日本は予選リーグを2位で突破し、予選1位のアメリカと準決勝を戦いました。そこで敗れ、3位決定戦に回り、オーストラリアに勝って、再度、決勝でアメリカと当たりました。

 

二宮: そこでアメリカに勝って、見事、金メダルを獲得。まさに大逆転の金メダルだったわけです。その決勝のアメリカ戦で、山田選手は第一打席でわざと三振という話を耳にしました。大舞台での貴重な一打席だと思うのですが、何か意図があったのでしょうか。

山田 ボールを見極めて、次の打席に生かそうと思ったんです。前の二人がいずれも三振で、既にツーアウトだったこともありました。最初から「全部見送ろう」と考えていたわけではないのですが、打席に入ってみると、なぜかいつもと違う感覚でした。とにかくボールがよく見えたんです。それで「この打席は配球や球筋などよく見て、次に生かそう」と決めました。

 

二宮: 大胆な決断ですね。結局、何球見たんですか?

山田 フルカウント(スリーボール・ツーストライク)までいきましたから、六球ですね。結果的にバットは一度も振っていません。

 

二宮: それまで三振、三振ときて、山田さんも三振。三者連続三振ですから、相手のピッチャーもそこで油断したかもしれませんね。

山田 そういう効果もあったかもしれません。

 

二宮: 普通、全球見送りの三振では、監督やコーチからは何か言われませんでしたか? 私も、現地で取材していて「あれ、緊張しているのかな」と思ったくらいです。

山田 いえ。ベンチに戻っても何も言われませんでしたし、緊張も全然してなかったですよ(笑)。

 

二宮: それはすごい(笑)。それで次の打席でホームランを打つわけですが、打ったボールの球種は?

山田 ライズボール(ソフトボール特有の変化球で、打者の手元で浮き上がるように変化する)ですね。

 

二宮: 相手ピッチャーは、キャット・オスターマン。アメリカ代表のエースです。

山田 ボールはそれほど速くないのですが、ライズボールとドロップボール(打者の手前で落ちる変化球)、どちらもその変化がすごかったです。

 

二宮: それを全部見極められた?

山田 球筋はだいたい読めていました。ホームランを打った打席では、最初はドロップボールを狙おうと思って構えの重心を下げていました。実際、初球にドロップがきたのですが空振りしてしまった。それで二球目は重心を上げて、ライズボールを狙いました。そうしたら狙いどおりライズがきたので、思いっきり振ったらホームランになりました。

 

二宮: 先制したあとの貴重な追加点となるホームラン。最終的に3―1で勝ったことを考えると、大きな一発でしたね。ちなみに、どの段階で優勝を確信しましたか。

山田 最終回(七回)もノーアウトでランナーを背負いながら、なんとか好守備で切り抜けたようにピンチの連続でした。そういう意味では、最後まで気が抜けませんでした。

 

二宮: それにしても、準決勝でアメリカに負けてから五時間後に三位決定戦をやって、翌日に決勝戦。体力的には相当きつかったのでは?

山田 私たち野手はそれほどでもなかったですが、上野(由岐子)さんは大変だったと思います。

 

二宮: 日本代表のエースである上野投手は準決勝のアメリカ戦、3位決定戦のオーストラリア戦を一人で投げ抜いて、さらに翌日、決勝も完投。その投球数は2日間で400球を超えました。

山田 相当疲れはあったと思いますが、後ろから見ていて投球フォームの乱れもなかったし、ボールの切れも変わりませんでした。むしろ、毎試合、力強さを増しているように見えたぐらいです。

 

二宮: 体力もそうですが、精神力が本当にすごいですね。そういえば、北京五輪では外野手がサングラスをかけてプレーしている姿が印象に残りました。

山田 照明がかなりまぶしくて、ナイターでもサングラスをかけていました。

 

二宮: そういう「勝つための準備」もしっかりされていたんですね。

山田 サングラスのほかにも、暑さ対策だったり、太陽の位置の確認だったり、グランドの固さや芝の目の向き、そしてアメリカという最強チームの研究と、あらゆることを徹底的に調べて万全の態勢で臨みました。

 

二宮: ここからは、山田選手のヒストリーをお聞きしたいと思います。ソフトボールを始めたきっかけは?

山田 私は野球から入りました。二人の兄が野球をやっていたので、それを見て始めたんです。中学は軟式野球部で、男子に交じって一番を打っていました。

 

二宮: 相手選手はビックリしたんじゃないですか。

山田 驚かれたことはありませんね。私が女子だって気づいてなかったのかもしれない(苦笑)。

 

二宮: きっと女子だって気づかないくらい、実力があったんですよ(笑)。その後、ソフトボールの強豪である厚木商業高校に進学されるわけですが、そうするとソフトボールを始めたのは高校に入ってからですか。

山田 はい。でも実はソフトボールが強い高校だなんて知らなかったんです。野球をやりたくても女子の甲子園出場は認められていない。だからとりあえず……というくらいで始めたんです。そうしたら、そのスピード感や迫力に衝撃を受けて、本格的に始めました。

 

二宮: 五輪を意識し始めたのはいつごろからですか。

山田 高校二年のときにシドニー五輪があり、そのころからですね。

 

二宮: シドニー五輪で日本代表は銀メダルを獲得しました。当時の代表監督は宇津木(妙子)監督でした。厳しい指導で有名です。

山田 宇津木監督は怖いと思われているようですが、心があるし、言うことがすごく理にかなっていて、この人のために勝ちたいと思える監督でした。

 

(後編につづく)


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