皆様、2カ月ぶり振りの小野でございます。依然として続くコロナ禍ですが、いかがお過ごしでしょうか。仕事で車移動するケースが多くありますが、近頃は「GOTOトラベルキャンペーン」の効果なのでしょうか、土日の道路の混雑具合は例年以上に激しく感じます。渋滞マップを眺めながら「多くの方々が観光地へ足を運んでいるんだろうな」と思う今日この頃です。


 このキャンペーンは宿泊代の割引、さらに地域共通クーポンも頂けるなど、コロナの影響脱出のために国が観光関連業を後押ししていることがしっかりと感じられます。冬の足音も聞こえてくるこの時期、私も近々温泉宿を予約し、ゆっくりとした時間を過ごしたいと考えております。

 

 さて、今回のコラムはドラフトについてです。10月26日に行われたドラフト会議では合計123名(支配下74人、育成49人)の選手が指名され、プロ野球への道が示されました。

 

 毎年のことですが注目選手がどの球団に行くのだろうと勝手に想像し、またあまり知られていない地方からこんな選手がっ! と驚きながらもドラフト会議を楽しんでいます。そういった中、様々な情報を見ながら指名される選手のことよりも、選手を獲得するために日々各地へ足を運び、情報収集や選手を間近で確かめる各球団のスカウト方の思いや苦労を考えずにはいられません。

 

 私は業務上、大学野球の公式戦に訪問する機会が多々あります。このとき必ずと言っていいほどバックネット裏には各球団の担当スカウトが陣取っています。そのスカウトの中には私の現役時代の同僚や、同じ時代に対戦をした選手たちも多く居て、昔話や今の野球界の事、そして身内話などなど色んな話題に花が咲きます。そんな雑談からも現在のプロ野球界の時流を確認することもあります。

 

 日に焼けて真っ黒になりながら、ダイヤモンドの原石となる選手を発掘するべく担当する地域をくまなく歩くスカウトの方々には、いつも感心させられます。こうした人たちの日々の積み重ねや努力が、ドラフト当日に集約されていると思うと、交渉権を得たときの思いは計り知れないくらいのものでしょう。さらに入団後はその選手の親になったような気持ちで温かく見守るのかなと考えてしまいます。ましてや大きく成長し、大活躍するプレーヤーになったらと思うと……私なら感動し大号泣することでしょう。

 

 こうしてドラフトの時期になると、自分が経験したドラフト、特に指名を断った1994年秋の高校3年時の心境はどうだったかなぁ、と思い出すことがあります。私は秋田経法大付高(現明桜)時代、「3年秋のドラフトで指名をされるために」毎日、部活を頑張っていました。

 

 3歳から野球に興味を示し、「プロ野球選手になっていっぱい契約金を貰ってお母さんにあげるね!」と話していた小学校低学年の頃。甲子園を目指し、負けず嫌いの精神で日本一の投手になると目標を掲げ、がむしゃらに白球を追いかけていた高校時代。高校生でありながらも大学生や社会人の選手らが集まる日本代表に選ばれ注目される選手になりました。

 

 そうした思いと努力の結実がドラフトでの指名でした。当時は「1位指名が6~8球団ほどある」と関係者から聞いていました。私は「いよいよだ。プロ野球へ行ける。とうとうプロ野球選手になれる」と思っていました。

 

 だが、そんな思いとは裏腹にドラフト会議前に、私は「プロ野球へは行かずに社会人野球に進みます」という記者会見を開きました。このときの記憶は今でも鮮明です。

 

「高校生からプロ野球に入っても直ぐには通用しない。大学や社会人に入ってもっと力を付けてからプロに行くべきだ!」

 

 周囲の方々の意見はこれがほとんどでした。

 

 自分としては元々、プロに入って大活躍する、何億円も稼ぐ投手になってやる、という野心を強く持っていました。だけどこうした周囲の話をまともに受け、「自分は今プロに行っても通用しない」「まだまだ力不足なんだ」と思うようになり、また日本代表としてオリンピックを目指し金メダルを目指そう!というともに日の丸を付けて戦った先輩方からのお言葉もあり、一旦プロ野球へ行かず社会人野球へ進むことにしました。日の丸を付け金メダルのために頑張るという『大義名分』が作られた格好でした。

 

 私は普段から、後悔のない日々を積み重ねるように考え、タラレバを言わない、考えないように心掛けていますが、この話になるとどうしても「そのまま高校生からプロ野球選手になっていたら……」との思いが頭をよぎります。

 

 このような経験から、進路に悩んでいる人と接すると自身の経験を踏まえてお話をさせていただいています。人生は一度きり。そしてそれは他ならぬ自分自身の人生です。自分の考えが正しいと思えるのであれば、その考えを実現するために突き進むように今は背中を押しています。

 

 皆さんも人生において迷い、立ち止まるときを経験するかと思います。どうか後悔のない選択を、と願ってやみません。

 

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


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