「五輪で印象に残っているのは試合よりも開会式。あれほどの感動を味わったことは、未だかつてないね」。そう語るのは東京五輪パラリンピック選手村村長の川淵三郎だ。スポーツ界のご意見番的存在でもある。

 

 1964年東京五輪。開催国枠で出場権を得たサッカー日本代表は、戦前の予想を覆しベスト8進出を果たした。予選リーグのアルゼンチン戦、勝利の立役者となったのが27歳の川淵だった。ヘディングによる同点ゴールに加え、決勝点にも絡んだ。

 

「それでも開会式のことの方がよく覚えているんだ」と語気を強め、川淵は続ける。「近代オリンピックの父であるピエール・ド・クーベルタンが一番の目的として目指したのが、若者同士が集うことでお互いを理解し合い、世界の平和につなげていこうということでしょう。すべての競技のアスリートが集まり、一体感を持って行動するのはオリンピックの開会式だけ。いま日程の部分で、サッカーのように開会式前に始まる競技もあるけど、これはちょっと五輪精神に反するんじゃないかと僕は思うね」

 

 各競技の世界選手権やワールドカップとの違いを川淵は「開会式の入場行進」に求める。「僕はこれだけは全てのアスリートに参加する義務があると思う。簡素化を言うのであればエキシビションをやめればいいんです。中には“サッカーのW杯だって入場行進をやらない”という人もいるけど、勘違いもはなはだしい。FIFAは平和のためにW杯をやっているんじゃないんだ。もう一回、五輪憲章を読み直してもらいたいね」

 

 返す刀でコロナの再拡大下、一部で浮上している「リモート五輪」もバッサリと切り捨てる。「リモート五輪なんてくだらんにも程があるね。お客さんの声援なしにいい演技、いいパフォーマンスができるわけがない。それこそアスリートファーストに反するんじゃないの。今、プロ野球やJリーグ、Bリーグ、そして大相撲が悪戦苦闘しながら、少しずつお客さんを増やしているのは五輪のためでもある。リモートや無観客でやるくらいなら、その五輪にはもはや何の値打ちもない。第一、それでは“コロナを克服した証”にならないでしょう。それなら、いっそ中止の方がいいね」

 

 開催そのものが自己目的化し、五輪開催の意義、五輪精神の涵養が薄れつつあるのではないか――。天下御免の川淵節。五輪を愛すればこその苦言である。

 

<この原稿は20年11月11日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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