春先のことだ。塩崎恭久元厚労大臣がテレビで自民党の新型コロナウイルス対策を説明した。「あんなものと共存したくはないが…」と前置きしつつ「今後、我々はウィズコロナの時代を生きなければいけない」と発言したところ、放送終了後「なぜ、あんなものと共に生きなければいけないのだ」との意見が、いくつか寄せられたという。

 

 しかし、それから半年以上たった今、同じ発言を耳にして、目くじらを立てたり、いきり立つ人は、そうはいまい。好むと好まざるとに関わらず「ウィズコロナ」は人口に膾炙した。

 

 同じように「ニューノーマル」という言葉にも違和感を覚えなくなった。本来は2007年から始まる世界金融危機のリセッション(景気後退)を受け、金融経済は新しい状況に移行したとの専門用語だが、今ではポストコロナの「新常態」を指す用語として定着している。

 

「人は絞首台にも慣れる」という言葉は哲学者・鷲田清一の著述の受け売りだが、異常な状況に身を置こうが、やがてそれに慣れ、いつしか折り合いをつけてしまうのが人間という生き物の悲しくも恐ろしい性なのだろう。翻せば、だからこそ幾多の災厄に見舞われながらも、しぶとく命脈を保ってきたとも言える。

 

 16日、IOCトーマス・バッハ会長と会談した菅義偉首相は「人類がウイルスに打ち勝った証として、東京大会の開催を実現する決意だ」と力強く語った。「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京オリンピック・パラリンピックを開催する」。これは今年3月、安倍晋三前首相が東京大会の1年延期を決めた際のIOC首脳との電話会談での発言を踏襲したものだ。頼もしいが力み過ぎていて、ちょっと心配である。

 

 大会開催をにらんで検討を進めている外国人観客に対する待機(2週間)免除、公共交通機関の使用許可も気になる。感染防止対策は後回しか。こうした「前のめり」の姿勢が、逆に国民の不安を助長し五輪・パラリンピックに対する関心を遠ざけているように映る。衣の下の鎧が出過ぎてはいまいか。

 

 開催ありき、ではなく五輪精神ありき。ここは商業五輪下にあって、死守すべき最後の砦だ。コロナ禍で人々は、どう生きたか。平和の祭典に人々は、どんな希望を託そうとしたのか。「前のめり」ではなく、誰もが自ずと「前を向ける」叙情的な演説が聞きたい。

 

<この原稿は20年11月17日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから