将来を嘱望される右の長距離砲、しかも高卒ルーキーとなれば清原和博(現オリックス)以来だろう。
 北海道日本ハムの“怪物ルーキー”中田翔(大阪桐蔭)のバットが注目を集めている。2月10日、阪神との練習試合では推定130メートルの場外ホームランを放った。高校通算87本塁打の実績はダテではなかったということだ。

 18歳の4番打者――かつて、そう呼ばれた男がいる。
 近鉄や西武などで活躍した土井正博だ。高校を中退して近鉄に入団した土井は2年目からレギュラーに抜擢され、4年目には2割9分6厘、28本塁打、98打点という好成績を残した。168安打はリーグ最多だった。
 土井は21年間にわたってプレーし、通算2452安打、465本塁打、1400打点を記録した。ちなみに通算2452安打は右バッターとしては野村克也(現楽天監督)、衣笠祥雄、長嶋茂雄に次いで史上4位である。

 土井は清原の“育ての親”としても知られている。西武の打撃コーチ時代、鳴り物入りで入ってきたのが清原だった。ルーキーは大きな悩みを抱えていた。
 土井の回想。
「木製のバットをポキポキ折られるわけです。もう折られまくったと言っていいくらい徹底的にやられた。それで本人は悩んでしまった。
 ある日、清原が僕に相談にきた。“金属バットやったら、全部ホームランになっているのに何ででしょう?”と。
 それで僕はこう言ってやった。“オマエ齢はいくつだ?”と。18歳だろ。1年目でいきなり百戦錬磨の村田兆治や山田久志のボールを打てるわけがないやろうと。
 この一言で本人は“すっかり気分が楽になりました”と。1年目から、あまり技術的な細かいことは言わん方がええ。細かいことばかり指摘すると余計に悩んでしまいますワ」

 土井は当時、監督だった森祇晶に「失敗しても辛抱強く使ってやってください」と直談判した。18歳で4番を任された自らの経験を監督に伝えたのだ。
「いくら素質のある選手でも、1年か2年は辛抱して使ってやらんと伸びてこんですよ。ちょっと打てんから言うていじり回すと、最初のかたちがなくなってしまう。
 だから僕はヒントは与えても、あれこれとバッティングフォームにまで口出しはしなかった。ほら、模型と一緒ですよ。最初から“こないしなさい”と言うて教えてやれば、誰でもできますよ。でも自分ひとりになったら、よう組み立てられん。バッティングもそういうものですよ」

 バッティングに関して、細かいアドバイスをしなかった土井が唯一、チェックを怠らなかったのが「体の開き」である。体が早く開くと、アウトコースのストライクがボール球に見えてしまう。左足が開くため、遠くのボールがより遠くに見えてしまうのだ。スランプの始まりだ。
 逆にピッチャーからすれば、体を開かせるために、胸元に死球スレスレのボールを投じる。バッターはそれを我慢しなければならない。体が開き、踏み込みが弱まれば、それこそピッチャーの思うツボだからである。
 ちなみに清原の通算死球数196は歴代1位である。ピッチャーは内角を執拗に攻めることで彼の体を開かせようと企てたのである。

 入団4年目、清原はロッテの平沼定晴から左ヒジ直撃の死球を受け、激昂してバットを投げつけた。これがトラウマとなり、彼は内角のボールに対し、より神経質になっていった。
 巨人からオリックスに移ったばかりの頃、清原は語気を強めてこう言った。
「ヤラれっ放しでケガして入院するぐらいなら、こっちから行って守るべきものを守りたい」

 中田も清原と同じ道を歩む可能性が高い。彼が“18歳の4番打者”になれるかどうかは現時点ではわからないが、レギュラーの座を獲得し、ホームラン打者の道を歩み始めたら、間違いなく執拗なインコース攻めに遭うだろう。
 その時、彼は体を開くことなく、胸元を襲うボールに対しても泰然自若とした態度を貫くことができるだろうか。

 素材の良さについては誰もが認める。10年にひとり出るか出ないかの逸材だ。性格も陽性でスター性もある。
 大成するかしないかは、ひとえに内角球への対応にかかっている。先述したように、死球を恐れて体を開けば、ピッチャーの思うツボ。かといって、無闇に踏み込んでいったら死球を浴び、ケガをする。そうなれば元も子もない。中田にも清原における土井コーチのような、経験豊富な師匠が必要である。

<この原稿は2008年4月号『Voice』に掲載されたものです>

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