皆様2カ月ぶりの登場、白寿の岸川でございます。
2020年プロ野球の日本シリーズは昨年と同じ対戦となりました。結果、ソフトバンクホークスが4連勝と圧倒的な戦いぶりで4年連続日本一に輝きました。私はジャイアンツのユニフォームを着ていたので、当然ジャイアンツの王座奪還を期待しておりましたが、それはかないませんでした。
優勝してからシリーズまでの時間が空きすぎたとか、負けた原因はいろいろあるとは思いますが、私が個人的に思ったことは、ホークスの先発投手を含め出てくる投手のほとんどがストレートが150キロを超えていました。そのストレートで押し込まれ、対応しきれなかったジャイアンツの野手陣。セリーグの場合、150キロを投げる投手は勝ちパターンのセットアッパーやクローザーはいますが、先発投手にはあまりいません。今回は完全なる力負けだったと私の眼には映りました。
ですがこれで終わりではありません。また来季、簡単ではありませんがペナントを勝ち取り、クライマックスシリーズを勝ち抜け、日本一に向けて準備を進めていく選手たちを応援したいと思っております。
今回はある意味ジャイアンツを変えてくれた男、小久保裕紀氏の続編です。
私がジャイアンツで打撃投手を始めたとき、驚いたことがありました。選手と裏方では立場は違いますが、ジャイアンツは練習時間が短いな、と。これが私の第一印象でした。全体練習が終わった後で、選手は個人で練習をしていたとは思いますが、それでも上がるのが早いなと思っていました。
当時、裏方に個人練習を頼むということが無かったのかもしれませんが、15時~16時の間には裏方は宿舎に帰っていました。
そして04年、小久保選手がトレードで入団しました。この年は手術明けということもあり、ハードな練習は控えていたそうです。この年、打率.314、ホームラン41本、打点96という素晴らしい成績を上げた小久保選手から、シーズン終盤、来年のキャンプでの個人練習のパートナーをお願いされました。私は裏方として選手に頼られることを光栄と思い、喜んで引き受けました。
そして年が明け、2月1日キャンプインしました。全体練習も最初のクールなので全開とはいきませんが、ここから小久保選手との個人練習が始まりました。
小久保選手はダイエー時代からものすごく練習する選手として知られており、それをきっかけに「レギュラーの小久保さんがこんなに練習するなら自分達もやらなくては」と周囲の若い選手の練習量が増え、その結果、チームが強くなったと聞いていたのでそれなりに覚悟はしていました。でも、実際に練習パートナーになると、想像以上でした。
「何をすれば?」と聞くと、正面にネットを置いて「下からボールを投げて欲しい」と小久保選手。野球用語でいうティーを、このコースに上げてくれとお願いされました。
「数は?」「今日は一箱でお願いします」
ちなみに箱に入っているボールの数は約100球です。最初は「え、それだけ?」と思いましたが、2日目は2箱、3日目は3箱と1日ずつ箱の数が増えていきました。これ、何箱までいったと思いますか?
キャンプ10日目の練習では10箱に到達し、さすがに私も「10箱が最大?」と聞いたら「まだいきますよ!!」と。最終的には、15箱、約1500球までいきました。1500球と文字にすると簡単ですが、このトスを時間にすると3時間以上かかります。
これをキャンプ中盤から毎日繰り返し、その隣では高橋由伸選手が同じくらい時間をかけてティーを打っていました。2人の身体からは湯気が立ちのぼり、日が暮れて真っ暗になっても黙々と会話もなくティーが続いていくのです。
18時過ぎまでかかったこの練習はここで終わり、私はそこでお役目終了。でも、小久保選手はそれからウエイトトレーニングに向かい、宿舎に帰って来るのは20時近くになる時もありました。
その後身体のケアをした後、宿舎の食事の時間は終わっているので球団に断りを入れ22時過ぎから食事に出かけ、帰って来るのは24時過ぎ。そして睡眠、目を閉じたらあっという間に翌朝になり、また練習。これがキャンプ期間中、ずっと続きました。
小久保選手のこの様子を見ていた若手選手たちも触発され、練習パートナーを裏方に頼むようになり、この頃から個人練習に目の色を変えて取り組むようになっていきました。
小久保裕紀という1人の男の練習の取り組む姿勢そのものが、ジャイアンツの体質を変えたのではないかと私は思っています。そしてその後FA権を行使し、古巣ソフトバンクに帰るのですが、秋季キャンプ中の私は連絡を頂き「お世話になりした」いう言葉をもらいました。その時は裏方冥利に尽きるなと感激したものです。
小久保選手は来季から福岡ソフトバンクのヘッドコーチを務めます。小久保裕紀ヘッドコーチを陰ながら応援したいと思います。
さて、本年も私と小野仁が書いてきた白球徒然をご愛読ありがとうございました。来年は明るい話題が増えていくことを切に願っております。また来年もよろしくお願いいたします。
<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。
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