2002年、要田勇一の所属していた静岡FCは東海社会人リーグで優勝、JFL昇格を賭けて全国地域リーグ決勝大会に進出した。富山で行われた第一ラウンドを勝ち抜き、11月22日から大阪の鶴見緑地運動公園で行われる決勝ラウンドに進んだ。

 

 決勝ラウンドは、4チームが総当たりで対戦し、上位2チームがJFLの15、16位と入れ替え戦を戦うことになっていた。

 

 ぼくはこの試合の観戦のため、大阪入りした。伊丹空港からバスで新大阪駅へ。ところが渋滞により、予想以上に時間が掛かった。新大阪駅で地下鉄に乗り、鶴見緑地公園に着いたときには、すでに試合が始まっていた。

 

 初戦の佐川印刷(現・SP京都FC)戦にぎりぎり間に合うような日程を組んだのは、静岡FCのコーチを務めていた旧知の菊地基から、初戦は勝てると聞かされていたからだ。翌日、翌々日が勝負になるという――。

 

 試合を支配したのは、中盤から丁寧にボールを繋ぐ静岡FCだった。ところが、前線で張っている2人、要田と清野智秋の後方にポジションを取る、ジアスのところでボールが止まった。佐川印刷は古典的な“10番”であるジアスにボールが集まることを予測して、マークを厳しくしていたのだ。

 

 全盛期のジアスならば、楽々と交わしていたことだろう。しかし、明らかにジアスの身体は重く、ボールを受けるとすぐに囲まれ、奪われた。

 

 佐川印刷は、ボールを奪うとディフェンスラインとキーパーの間を目がけて長いボールを蹴り込み、足の速いフォワードに追いかけさせた。センターバックのブラジル人、アギナウドは足が遅い。静岡FCの弱点を突いていた。

 

 思わぬ苦戦で静岡FCの選手は苛立ち、しきりに審判に文句をつけるようになっていた。このとき、地域リーグはアマチュア選手中心だった。元Jリーガーを集めた静岡FCは、いい意味でも悪い意味でも目立っていた。審判にはプロ崩れの不遜な連中だと映ったはずだ。静岡FCへの笛が目立つようになった。

 

 地元クラブからのオファー

 

 前半が終わると4失点――0対4だった。

 

 後半、ようやく静岡FCの選手たちは落ち着きを取り戻し、3点を取り返した。しかし、1点を取られて3対5で終わった。予想外の敗戦だった。

 

 翌日のアイン食品との試合も守備が崩壊。静岡FCのサイドバック2人は上がり過ぎで、そのスペースに長いボールを入れられた。アイン食品の足の速いフォワードに走り回られ、前半だけで3失点。後半、要田が得点を決め、さらに1点追加した。しかし、1失点を喫し、2対4で試合を終えた。

 

 この敗戦で、入れ替え戦進出の可能性が消えた。試合終了の瞬間、要田たちはぼう然と立ち尽くしていた。

 

 しばらくして、要田から電話があった。関西社会人リーグの『セントラル神戸(現・チェント・クオーレ・ハリマ)』から誘われているという。

 

 静岡FCとの契約はもう1年残っていた。しかし、セントラル神戸は静岡FC以上の条件を出すという。地元クラブからの誘いに彼の心が揺れているのが分かった。

 

 誰かに背中を押されたいのだと思った。そこでぼくは、地元のクラブに戻るのは悪くない。そこで人間関係を作れば、次の段階に進む助けになるだろうと答えた。そのとき、彼は「そうですよね」とほっとしたような声を出したのだ。サッカー選手としては上を目指すことはない、と思った。

 

 そして、要田はセントラル神戸で唯一のプロ契約選手となった。

 

 関西社会人リーグは、全国社会人決勝大会で静岡FCが敗れた、佐川印刷、アイン食品など、力のあるクラブが揃っていた。

 

「1年やって(関西社会人リーグで)得点王になりました。でも、(クラブの目標であるJFLへの)昇格はできなかった。シーズンが終わった後、クラブ側からはもう1年やってくれという話を貰いました。ただ、ぼく以外の選手はみんな月々部費を払ってやっている。ぼくだけ払ってなくて、給料が出ている。若い選手から文句が出たらしいんです。当時の監督から呼ばれて、来年はスポンサーの会社に入って(働きながら)やってくれと言われた」

 

 要田はプロ契約選手として、結果を出したという自負があった。受け入れられない話だった。

 

 弟・章の兄を思う気持ち

 

 筆者の携帯電話に要田から電話が入ったのは、そんなときだった。

 

 要田はぼくに上のレベルでサッカーがしたいんですと言った。

 

 ぼくはこう返した。

「セントラル神戸でどのように過ごしていたかは分からない。恐らく、週に2日か3日、強度の低い練習をしていただけだろう。スペインにいたときと比べて、年を取り確実にスピードが落ちている。スペインから戻ってきたときでさえ、お前を欲しがるクラブは、静岡FC以外にはなかった。知り合いには当たってみるが、上のリーグならば、月5万円でも契約するクラブはないだろう」

 

 ぼくの言葉に要田は黙ってしまった。厳しいようだったが現実だった。

 

 その後、要田の弟、章から電話が入った。

 

 章はこう切り出した。

「兄貴になんとか最後の挑戦をさせてやれませんか」

 

 章は、2002年の全国社会人決勝大会では3試合目だけ出場した。静岡FCが唯一勝ち星を挙げた試合だった。章は大学時代までのフォワードではなく、ディフェンダーとして起用された。初戦からこの布陣だったならば、と思わせる試合だった。

 

 兄と同じピッチに立てたことで満足したのか、章はこの試合を最後に現役引退をして、サッカーから離れていた。

 

「どこでもいいんです。あいつがサッカー選手として、やり尽くしたと思うまでやらせたいんです」

 

 自分の夢を兄に託したいという章の切実な気持ちが伝わった。そのとき、ぼくの頭に地球の裏側の荒涼としたピッチが浮かんだ。

 

 パラグアイである――。 

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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