部屋の受話器を取ると、「おう、俺だ、納谷だ」という、だみ声が聞こえてきた。

 

 まだ日は昇っておらず、窓の外は真っ暗だった。納谷とはいったい誰だ。そんな知り合いがいただろうかと要田勇一は首を傾げた。そもそもスペイン北部、ラコルーニャの学生寮に滞在していることは、親を含めたごく親しい人にしか伝えていないはずだ。

 

 しばらくして電話を掛けてきたのが納谷宣雄――三浦知良の実父であると気がつき、ベッドの上で思わず背筋を伸ばした。

 

 要田は、当時を思い出したか、朝4時ですよ、とくすくす笑った。

「宣(雄)さんにとっては時間は関係ないでしょうけど。それで、“お前っち、どこにいるんだ”って話が始まりました」

 

 スペインまで電話しておきながら、どこにいるかはないだろうと思ったという。

 

 ラコルーニャに出発する前の2001年12月28日に、要田は筆者に連れられて、静岡市にある納谷が経営していた寿司屋「七八」を訪ねている。ラコルーニャでは、納谷の兄、聖司に面倒をみてもらう。スペインで自主練習をする三浦知良にも会うことになるはずだ、納谷に紹介しておいた方がいいだろうとぼくが判断したのだ。

 

 要田、そして彼の弟である章と共に、高速バスで東京駅から静岡に入り、寿司屋に隣接した納谷の事務所で、世間話をした。それだけの関係だった。

「(日本に)戻ってこいって言われたのかな。ぼくは、“3月まではスペインでテストを受けています”って答えたような気がします。そうしたら“(スペイン滞在が)終わったら連絡くれ”って」

 

 戻ってこいというのは、彼が始めていた「クラブ」のことだった。

 

 不思議なオプション契約

 

 納谷は静岡県リーグ1部所属の『やまき屋SC』を引き継ぐ形で、『静岡FC』を立ち上げていた。01年に静岡県リーグで優勝し、昇格を決めていた。5月から始まる東海社会人リーグに間に合うように合流して欲しいというのだ。

 

 直後、ぼくのところに要田からどうしましょうかという電話が入った。3カ月の観光ビザでの滞在期間が終わろうとしていた。一度、出国してから再入国、2部リーグの別のクラブを当たるか――聖司と相談をしているところだった。

 

 納谷は以前から、地元である静岡市にJリーグのクラブを作りたいと口にしていた。地域リーグを勝ち抜けば、次はJFLだ。Jリーグまであと一歩である。振り返ってみれば、要田が横浜FCに加入したとき、クラブはJFLだった。納谷ならばJリーグまで一気に上げることができるかもしれない。要田は所属先がないという不安定な状態に疲れているようだった。納谷が提示していた月20万円という報酬も今の要田にとってはありがたいはずだ。求められているクラブに行くことは、現時点での最善の選択肢かもしれなかった。要田にとっては、憧れの三浦知良の父親のクラブでもあるのだ。

 

 12月に静岡で、要田を引き合わせたとき、納谷は興味を持っているという風ではなかった。リーグ開幕が近づき、戦力補強を思い立ったのだろう。要田の実家を調べて、彼の母親からラコルーニャの番号を聞き出したのだ。思い立ったときにすぐ行動するというのは、納谷らしい。

 

 清水エスパルスなどで監督を務めたエメルソン・レオンに話を聞いたとき、「(日本にいる)ナヤがとんでもない時間に電話をしてくるんだ」とこぼしていたことを思い出した。

 

 要田は日本に帰国し、静岡FCに加入した。

 

 静岡FCは、元ヴェルディ川崎の森下源基を社長としていたが、実質は“ゼネラルマネージャー”である納谷が仕切っていた。良くも悪くも彼の性格――融通無碍さがチームに反映されていた。

 

 要田との月20万円という約束は「(食事のとき)米は幾らでも食べていいから」という不思議な“オプション契約”によって、月15万円に値切られた。

 

 チームで10番をつけていたのは、カルロス・アルベルト・ジアスである。1967年生まれのジアスは、サンパウロ州内陸部の田舎クラブ、SEマツバラでプロ選手としての生活を始めたミッドフィールダーである。マツバラには三浦知良が所属していた。納谷との付き合いはここからになる。後にジアスと三浦はコリチーバでも同僚となっている。

 

 納谷は代理人としてジアスを、95年に清水エスパルス、97年にヴェルディ川崎に送り込んだ。2人は腐れ縁のような仲だった。

 

 人材は揃っているものの……

 

 ブラジル代表経験もあるジアスを地域リーグのクラブでプレーさせようと考えるのは、納谷ぐらいだろう。ただし、ジアスは30代半ばを越えており、不摂生もあって運動量は極端に少なくなっていた。

 

 監督のアンドレも納谷が、ジュビロ磐田の前身、ヤマハ発動機サッカー部時代に入れた元選手である。また、選手は納谷が手掛けていたブラジルへの留学生出身者が多く含まれていた。その他、どういう縁があったのか、韓国人選手もひとりいた。

 

 韓国人選手は、上下関係に厳しかった。寮では年上の要田が箸をつけるまで、食事を始めなかった。年下の選手が先に食べ始めると、たしなめることもあった。また、傍若無人に振る舞う、ジアスたちブラジル人選手たちを快く思っていなかったのか、練習中につかみ合いの喧嘩となったこともある。

 

 才能はある選手はいたにしても、破れかぶれのようなチームだった。

 

 要田にとって嬉しかったのは、高校以来に弟の章と一緒にプレーできることだった。章は大学卒業後、アメリカの大学に留学、帰国していた。サッカーという夢を追いかけている兄が羨ましかったのだろう。章は静岡市内のホテルで働きながら、静岡FCの選手として加わることになった。

 

 静岡FCは、東海社会人リーグを難なく勝ち抜き、JFL昇格を掛けて全国社会人決勝大会に進出した。

 

 決勝大会に合わせて、納谷はさらに補強を行っている。

 

 ジュビロ磐田を多重債務で解雇された清野智秋だ。清野は18、19歳以下の日本代表に選ばれた、将来を嘱望されたストライカーだった。

 

 要田はツートップを組むことになった清野の能力に眼を見張った。

「もうモノが違いました。ボールの受け方、動き方。ああ、(JFLに)行けるわ、と思いましたね」

 

 このとき、ジアス、要田、そして清野のようなJリーグ経験者を集めた地域リーグのクラブは皆無だった。すんなりとJFLに昇格を決めるだろうと要田は楽観的だった。

 

 しかし、思った通りにはならなかった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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