ぼくが南米大陸の内陸部にある小国、パラグアイを初めて訪れたのは、1998年5月のことだった。前年の1997年6月からサンパウロを拠点に、バックパックを背負って、フランス領ギアナ、ガイアナ、スリナムといったほとんど知られていない国を含めて南米大陸の全ての国を回る旅に出ていたのだ。サンパウロから大西洋側を反時計回りに北上し、ベネズエラから太平洋側を南下した。南米大陸の最南端ウシュアイアまで行き、そこからブエノスアイレス、そしてパラグアイのアスンシオンに入った。

 

 パラグアイで南米大陸全ての国の“踏破”を達成した。アスンシオンには4日間滞在したが、正直なところ、強い印象はない。サンパウロ州のよくある静かな田舎町という風情で、首都にも関わらず、緊張感のない街だった。

 

 そんなぼくがパラグアイと関わりを深めるきっかけとなったのは、2001年3月にペルーのリマで元日本代表の廣山望を取材したことだった。ぼくは日本大使公邸占拠事件後のペルーを取材していた。そのとき、たまたまセロ・ポルテーニョに所属していた廣山がリベルタドーレス杯でリマにやってきたのだ。

 

 現在、能力のある日本人選手が国外クラブへ移籍することは、日常である。しかし、2000年の時点ではそうではなかった。1998年のフランス大会で日本代表は念願のワールドカップ初出場を成し遂げていた。しかし、グループリーグで敗退した極東の弱小国という扱いで、日本人選手の評価は低かった。出版社を退社したばかりのぼくは、世界に飛び出そうと藻掻いていた彼に自分の姿を重ねた。そしてパラグアイに会いに行くと約束したのだ。

 

 廣山望を支えた人物

 

(写真:パラグアイ出発に向け、旅行代理店スタッフからチケットを受け取る要田<右から2人目>)

 そして2001年6月、ぼくはアスンシオンを訪れた。そして廣山の生活の面倒を見ていた淵脇隼人と知り合うことになった。

 

 淵脇はぼくと同年代、1967年生まれの日系2世だった。

 

 パラグアイに日本人移民が入ったのは、1950年代とされている。淵脇の父親は1957年に農業移民としてパラグアイに渡った。まずはラパスという移住地で小麦や大豆の栽培を手掛けた後、首都アスンシオンで野菜市場を始めて成功を収めた。

 

 淵脇一家はアスンシオン市内の5階建てのビルに住んでいた。3階を事務所、4階と5階の半分を淵脇一家が住居として使用しており、残りを間貸ししていた。廣山は2階部分に住んでいた。パラグアイで廣山が結果を残せたのは、淵脇の支えが大きかった。その後、廣山はポルトガル、フランスへと移籍したが、淵脇との付き合いは続いていた。

 

 要田から相談を受けたとき、頭に浮かんだのが淵脇の穏やかな顔だった。

 

 地域リーグに馴染んでしまった要田は、スペインなどの欧州主要リーグの1部ではとても通用しない。2部以下になるだろう。そうした小さなクラブに外国人が移籍することは稀だった。またシーズン途中の移籍はかなり難しい。

 

 1年中、何らかの大会が行われているブラジルも選択肢のひとつだった。しかし、労働ビザの問題があった。廣山の代理人、ロベルト佐藤はポルトガルへ移籍する前、ブラジルのフラメンゴなどと交渉していた。ところが時期が悪かった。ブラジルは労働ビザを絞っていたのだ。レシフェにあるスポルチと契約締結したものの、労働ビザが下りず試合に出場できなかった。

 

 パラグアイはブラジルに比べるとビザがかなり緩い。何より淵脇がいた。

 

 淵脇に連絡を取ると、ヴィッセル神戸や横浜FCでプレーしていた選手ならば興味があるという返事だった。淵脇は日本から留学生の受け入れを進めていた。要田がプロとして実績を残せば、留学生集めの宣伝となるという計算もあったろう。

 

 要田は人間的にしっかりした男で、スペインのラコルーニャに3カ月滞在していたので、多少スペイン語も理解できるはずだとぼくは伝えた。

 

「分かりました。要田さんを受け入れます」

 

 受話器から、地球の裏側にいる淵脇の朗らかな声が聞こえてきた。

 

 すぐに要田の弟である章と連絡を取り、飛行機の便を手配させた。往復運賃は要田の負担だ。

 

 機内で押し寄せた不安

 

(写真:成田空港内のレストランにて必要書類に記入する要田<右>と、兄の挑戦を応援する弟・章)

 出発の2004年1月17日は朝から雪が舞う寒い日だった。ぼくは成田空港で要田兄弟たちと合流した。搭乗口に向かう要田の後ろ姿を見ながら、肩の荷を降ろした気分だった。相談を受けてから、わずかな期間で話をまとめたのだ。

 

 ぼくには彼の心中を慮る余裕はなかった――。

 

 要田は飛行機に乗った途端、不安で押しつぶされそうになったという。

「飛行機の中で、わんわん泣いてました。俺、大丈夫かなって。(弟の)章から“ほんまにやりたかったら行け”って言われて。それで、みんなが動いてくれているじゃないですか」

 

 自分の意思とは別に話がどんどん進み、断れない状態になっていたのだ。

「飛行機の中でふと気がついたんです。淵脇さんという人のところに行くと聞かされていたんですけれど、ぼくは淵脇さんの顔を知らない。迎えに来てくれているのかも分からない。パラグアイに着いても、会えなかったらどうしたらいいだろうって」

 

 要田の乗った日本航空機は、ニューヨークに到着した。旅行代理店の男からは、ニューヨークで一度荷物を引き取って、再度、荷物を預けると聞かされていた。しかし、誰も荷物を受け取っていない。荷物の取り扱いが変わったようだった。周囲に倣ってサンパウロ行きの飛行機に乗ることにした。

 

 サンパウロでアスンシオン行きの飛行機に乗り換えた。古く小さな機体だった。飛行機が飛び立つと、隣りの席のアジア系と思しき老女が、正座をして手を合わせて祈っていた。その姿を見てはっとした。

 

(この飛行機ってやばいんや)

 

 機内を見回すと、これまで乗ってきた飛行機とは様子が違っていた。荷物入れなどのプラスティックの色は褪せており、明らかに古い。無事に到着することを祈るしかなかった。窓の外からは、牧草地帯が見えた。やがて、茶色い地面が近づいて来た。アスンシオンの空港だった。日本を出てから30時間以上が経っていた。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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