輝かしい実績から“プロレスリングマスター”と呼ばれ、世界中にファンを持つ武藤敬司。しかし、これまでの激闘の代償は大きく、2018年には両ひざの人工関節置換術を受けた。その「プロレスLOVE」に満ちたリング人生に、当HP編集長・二宮清純が迫る。

 

二宮清純: 最近、ひざの調子はどうですか。

武藤敬司: いい感じですよ。痛みもほとんどないので、今は月に1~2回のペースで試合をしています。

 

二宮: 最初に両ひざを人工関節にしたと聞いたときは、とても驚きました。

武藤: 以前から人工関節への置換を勧められていたのですが、「リング復帰は難しくなる」と言われて、なかなか踏み切れなかったんです。でも、人工関節の分野で世界トップクラスの実績を誇る医師に巡り合い、「人工関節でもリングに上がれる」と言ってもらえて、それで手術しました。

 

二宮: はた目にもわかるほどひざの状態は悪そうでしたが、診断した医師は何と?

武藤 : 「ビルの3階ぐらいから落ちた転落事故のけがと同等」「あり得ないむちゃな足」と言われました。俺のひざの骨はかなり大きくて、日本に適合するものはなかったみたいです。結局、海外から取り寄せました。金属部分に「MUTO」と刻まれているので、俺が死んだら骨と一緒に、「MUTO」って刻まれた金属が残るかもしれません(笑)。

 

二宮: そんなにひどい状態だったとは……。今は、蹴られても大丈夫ですか。

武藤: 全く問題ないです。ただ、「ムーンサルトプレス」をやると、素材の金属に負けてほかの足の骨が折れてしまうので、二度とやってはいけないと言われています。

 

二宮: それほどムーンサルトによる衝撃は、大きかったわけですね。そのムーンサルトの誕生秘話も含めて、プロレス人生を振り返っていただきたいのですが、まずはプロレスラーになったきっかけを教えてください。

武藤: 新日本プロレスのレスラーが通っていた整骨院の院長の紹介です。俺は小学2年から柔道をやっていて、将来は柔道整復師になりたいと思っていました。それで専門学校で資格を取って、接骨院で働いていたのですが、限界を感じていた。それで、整骨院にいた学校の先輩に、院長への仲介をお願いしたんです。

 

二宮: 武藤さんは子供の頃からプロレスファンだったのですか。

武藤: ファンではなかったのですが、普通にテレビで見たりはしていました。当時、アントニオ猪木さんとウィリー・ウィリアムスの異種格闘技戦があって、よく柔道の練習後に「プロレスごっこ」をしていたんです。それで何となく「プロレスをやってみようかな」と思って、先輩に相談しました。

 

二宮: 最初に会った新日本のレスラーは?

武藤: 入門テストの前に坂口征二さんと山本小鉄さんによる面接がありました。そのときにプロレスラーを初めて間近で見たのですが、坂口さんの指の大きさや小鉄さんのごつい体つきを見て、「やっていけんのかなぁ」と思いましたね。

 

二宮: 小鉄さんといえば、選手に厳しい練習を課すことから、「鬼軍曹」と呼ばれていました。やはり、入門後の練習は厳しかった?

武藤: もう大変でしたよ。練習のきつさはもちろん、少しでもふざけようものなら、追加でヒンズースクワットを2000回とかやらされました。

 

二宮: ヒンズースクワットは、ひざにいちばん負担がかかるトレーニングですよ。

武藤: だから、ひざが悪くなったんですよ(笑)。あまりにも練習がきつく、加えて「練習中に水は飲むな」といった理不尽な指導もあって、同期の蝶野(正洋)や橋本(真也)を誘って新日本をやめようとしたこともあるんです。

 

二宮: そこまで追い詰められていたのに、踏みとどまったのは?

武藤: 実際、小鉄さんに「やめます」と伝えたんです。そうしたら、ほかの選手がやめるときは引きとめなかったのに、俺には「もう少し頑張ってみろ」と言ってくれました。「もしかしたら期待されているのかな」とうれしくなって、それで続けることにしたんです。あのとき引きとめてくれなければ、今の武藤敬司はないわけで、小鉄さんにはすごく感謝しています。

 

二宮: 小鉄さんは、武藤さんの才能を見抜いていたのでしょうね。デビュー戦の相手は、同期の蝶野さん。入門からわずか半年のスピードデビューでした。

武藤: 俺が入門した当時、新日本では大量離脱が起きていたんです。UWF(プロレス団体)に前田日明さんや髙田延彦さんが移籍し、さらに「ジャパンプロレス」を設立した長州力さんやアニマル浜口さんが、戦いの場を全日本プロレスに移しました。会社は厳しい状況だったみたいですけど、俺はうるさい先輩もいなくなり、会社も優しくなって、うれしかった。「これならテレビに映る日も遠くないかも……」なんて考えたりもしました(笑)。

 

(詳しいインタビューは12月28日発売の『第三文明』2021年2月号をぜひご覧ください)

 

武藤敬司(むとう・けいじ)プロフィール>

1962年12月23日、山梨県富士吉田市出身。小学2年で柔道を始め、高校時に国体に出場したほか、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95キロ以下級で3位に入るなど活躍した。84年4月に新日本プロレスに入門し、同年10月5日の蝶野正洋戦でデビュー。88年からの2度目の海外遠征では、ヒール(悪役)のグレート・ムタとして人気を博す。90年に帰国すると、同期の橋本真也、蝶野とともに「闘魂三銃士」と呼ばれ、IWGPヘビー級王座獲得、GIクライマックス優勝など、90年代の新日本プロレスを牽引した。2002年の全日本プロレス移籍後は、社長を務める傍らで三冠ヘビー級王座やプロレス大賞MVP(08年)を獲得。13年に全日本プロレスを離れ、新団体「WRESTLE-1」を旗揚げ。18年3月、両ひざの人工関節置換術を受け、1年3カ月にわたり欠場を余儀なくされた。現在は、フリーの立場でプロレスリング・ノアなどに参戦。バラエティー番組出演など、タレントとしても活動している。


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