日本人で初めて二階級制覇(世界フライ級、バンタム級)を成し遂げたファイティング原田会長。試合で見せる猛ラッシュは世界を驚かせ、当時の日本国民は熱狂した。その壮絶なボクサー人生と歴史に刻まれる戦いの数々を、当HP編集長・二宮清純とともに振り返る。

 

二宮清純: 今日は、ボクシング界のリビングレジェンド(生きる伝説)であるファイティング原田さんをゲストにお迎えしました。私と同世代、あるいは上の世代の人々にとって、原田さんは大相撲の「大鵬」、プロ野球の「長嶋茂雄」と並ぶスーパーヒーローです。

ファイティング原田: そう言われると何だか照れるなあ(笑)。今日は何でも聞いてよ。

 

二宮: ありがとうございます。ではさっそくですが、原田さんがボクシングを始めたきっかけから。

原田: 僕が中学生のころ、植木職人だった親父がはしごから落ちてけがをして仕事ができなくなったんだ。それで僕は近所の米屋(米穀店)に働きに出たんだけど、その配達の途中で目に入ったのが笹崎ボクシングジム。ボクシングのことは全然知らなかったけど、興味があったから窓越しに練習を見るようになって、そのうち「これだ」と思ってジムの門をたたいたんだ。

 

二宮: 世界チャンピオンになるという夢は、いつごろから抱いていたのですか。

原田: ジムに入門したときからだよ。家にお金はなく、勉強は好きじゃなかったし、体も大きくなかった。でもボクシングなら、努力して強くなれば世に出られると思ったんだ。それで、「どうせなら世界チャンピオンになってやろう」ってね。米屋でバイトしながらのジム通いは大変だったけど、一俵(約60キロ)の米俵を担いで歩いたおかげで、足腰が鍛えられた。

 

二宮: 入門に、ご両親は反対しなかったのですか。

原田: 両親にも兄弟にも、ボクシングをしていることは内緒だった。世界チャンピオンになるという夢はあったけど、まだどうなるかわからないから、恥ずかしくて言えなくてね。

 

二宮: プロデビュー後は連戦連勝で、「カミソリ・パンチ」の海老原博幸さん、「メガトン・パンチ」の青木勝利さんとともに、「フライ級三羽ガラス」と呼ばれるようになりました。同門には、「たこ八郎」こと斎藤清作さんもいましたね。

原田: 懐かしいね。いいライバルに巡り合って、切磋琢磨できたことは大きかった。彼らがいたからこそ、今があると思っているよ。

 

二宮: 原田さんが最初に世界王座(フライ級)に挑戦したのは、1962年10月10日、東京五輪開幕の2年前でした。場所は蔵前国技館(当時)。王者ポーン・キングピッチ選手は、タイの国民的英雄で、下馬評は圧倒的にポーン有利でした。

原田: 当時、僕は日本タイトルにも挑戦したことがなかった。それなのに、急に世界戦が決まったから驚いたよ。でも、試合前の会見でポーンが僕を完全に見下しているのがわかって、「何だこの野郎」と闘志が沸いたんだ。

 

二宮: その闘志が、あの猛ラッシュにつながったんですね。特に11ラウンド、ポーン選手をコーナーに追い詰めてからのラッシュは、今も語り継がれるほどの回転力でした。

原田: 勝つためには、とにかく手数を増やさなきゃいけない。そうしないと、先にやられるという危機感もあったしね。

 

二宮: それにしてもすごかった。私も動画でブローの数を数えてみたんです。連打のスピードが速すぎて正確には把握できなかったものの、八十数発は打っていますね。

原田: 気持ちがどんどん前面に出てきて、「これでもか」ってくらい殴ったよ。

 

二宮: ポーンは試合開始直後、手数が少なかった。一方、原田さんはチャレンジャーらしく初回からラッシュをしかけました。

原田: 世界戦が決まると対策を練る選手が多いけど、僕は試合前に相手のビデオを見たことはないし、特別な練習もしなかった。なぜなら、自分のボクシングができなくなってしまうから。幸い、あの時は練習でたくさん走っていたから、足もよく動いてラッシュも好調だったんだ。

 

二宮: ポーンは、赤コーナーを背にして崩れ落ちました。タイ人レフェリーの10カウントは17秒もかかったと言われていますが、結局立ち上がることはできませんでした。

原田: レフェリーのカウントがスローモーションに見えたよ(笑)。でも、勝って胸がスーッとした。

 

(詳しいインタビューは2月1日発売の『第三文明』2021年3月号をぜひご覧ください)

 

<ファイティング原田(ふぁいてぃんぐ・はらだ)プロフィール>

本名は原田政彦(はらだ まさひこ)。1943年4月5日、東京都世田谷区出身。58年、14歳で笹崎ボクシングジムに入門し、60年にプロデビュー。62年、19歳で世界王座に初挑戦。フライ級のタイトルを獲得し、日本人2人目の世界王者となった。65年には世界バンタム級王座を獲得し、日本人初の2階級制覇を達成。同王座を4度防衛した。69年、3階級制覇を目指して世界フェザー級王座に挑戦するも、惜しくも敗戦。70年に現役を引退した。その後、89年に日本プロボクシング協会の会長に就任。7期21年にわたり同職を務務める。90年、日本人初となる世界ボクシング殿堂入りを果たす。現在は、日本プロボクシング協会顧問を務める傍ら、ファイティング原田ボクシングジム会長として後進の育成に励む。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問。プロ通算56勝(23KO)7敗。


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