皆様、あけましておめでとうございます。年が改まってもコロナ禍はなかなか収まらず、明るい情報があまり聞こえて来ない中ではございますが、このコラムでは今年も皆様にとって興味深く、楽しい話題を提供できるよう精一杯頑張ります。変わらぬご愛顧の程、よろしくお願いいたします。


 さてプロ野球のオフシーズンといえばFA権を行使した選手の移籍や、契約交渉でのアップやダウンでの悲喜こもごもの話題がマスコミを通して見られます。今回はファンの皆さんも興味があるであろうプロ野球選手の年俸、いわゆる「お金」のお話です。私の体験談をお伝えいたしましょう。

 

 私はプロ野球で2球団(巨人、大阪近鉄)、計7年間在籍し、その間、5回の契約更改交渉を経験しました。ちなみに6年目のオフはトレード移籍だったので、その年の成績などは関係なく扱われ、年俸はそのまま現状維持となり、球団事務所でただ契約書にサインをした記憶があります。

 

 さて5回の交渉を振り返ってみると、交渉の場の雰囲気というのは、かなり緊張する空気でした。今でもあまりかしこまった雰囲気に慣れていない私ですが、当時の自分を思い出すと、交渉の部屋へ入る前から緊張しっぱなしで、喉はカラカラ。「何を話せばいいんだろう」と全くわからない状態のまま部屋に入ると、査定部長の方が1人で座っていました。

 

 ここで話す内容は、まず「1年間ご苦労さま」と労いの言葉があり、その後に紙面で年間の成績を見せられ、成績評価の具体的な内容を伝えられるような形でした。

 

 正直、私は1軍でバリバリ活躍できた選手ではありませんでしたので、成績を提示されたとしてもほとんどが2軍での成績です。1軍での実績はないに等しかったので交渉するどころか、もう黙って判子を押すしかないだろうという状況でした。

 

「もっと上げてください」という言葉も言えず、提示されるまま契約書へのサインに応じただけの記憶だけが残っています。なんとも寂しい思い出です。

 

 さて、そんな私が現役生活を終え、とある日、元プロ野球選手の知人と食事をしたときのことです。その際、知人から「ジャイアンツには昔、ファーム(2軍)査定があったの?」と聞かれました。そう聞かれても、「よくわからない」というのが本音なので相手にもそのように答えました。しかし私が巨人時代に頂いていた年俸を考えると、確かに劇的にダウン提示をされたシーズンはありませんでした。

 

 一応、ファームでは常にローテーションの一翼を担い、投球回数も100イニングを超え、何度かファームで最多勝や最多奪三振、最優秀防御率のタイトルに輝いたシーズンもありました。ですが、タイトルとは言っても所詮はファームのタイトルです。プロ野球の投手は1軍のマウンドで結果を出して初めて評価され、2軍での活躍はゼロ査定、ないものに等しいと考えていたところがあったので、今冷静に振り返るとほぼ2軍暮らしだった私が大幅なダウンをされなかったのは、もしかするとファームでの評価、すなわちファーム査定があったのではないか、と考えるのが自然です。

 

 でもそれも昔の話です。現在、プロ野球選手の年俸のアップダウンを見ると、ファームでいくら良い成績を出してもかなりのダウン提示を受けています。巨人の投手ではファーム最多勝に輝き、あまり高年俸でない投手も100~300万円のダウンというニュースを目にした年もありました。

 

 そうした点を考えても昔と今とでは、球団の方針が大幅に変わっているのでしょう。特に3軍制度を導入してからは、育成体制が見直され査定もよりシビアに変化したように思えます。ファームにいる選手は「このまま2軍にいてしまうと自分のクビが飛んでしまう」と危機感を覚える選手が多くいるはずです。そうした危機感の中で、1人ひとりがどう野球と向き合い、自身のスキルを高めるために日々試行錯誤をしながらどう成長していくのか。そう考える選手が増えてきている気がします。実際、巨人のファームの選手を見ていても、そうした意識変化を感じます。

 

 プロ野球において選手の評価=年俸という図式は昔も今も変わりません。お金のことばかりを考えプレーをする選手はあまりいないはずですが、結果を出せばその分、大きなリターンがある。活躍する期間が長ければ長いほど、自身の価値がどんどんと増していく。そういう夢のある世界がプロ野球というものだと思います。

 

「グラウンドに銭が落ちている。拾うも拾わないも自分次第だ」

 

 これは、今回の原稿を書いている最中に思い出した現役時代にあるコーチから言われた一言です。ニュースでは新人選手の入寮の話題が伝えられています。これからプロ野球選手としてスタートするルーキーたちには謙虚に、そして貪欲さを持って、輝かしい活躍をすることを期待しています!

 

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


◎バックナンバーはこちらから