キャンプのMVPは北海道日本ハムの大物ルーキー中田翔で決まりだな。
 連日のようにスポーツ紙の一面を独占している。
 かつてキャンプの時期、スポーツ紙の一面を飾るのは巨人の大物ルーキーと相場が決まっていたが、最近は「巨人のドラフト1巡目ルーキーって誰だっけ?」ってな感じである。
 ちなみに高校生ドラフトの1巡目ルーキーは藤村大介(熊本工)、大学生・社会人ドラフトの1巡目ルーキーは村田透(大体大)である。

 節分の翌日のスポーツ紙は「鬼に金棒」とばかりに鬼に扮した中田が両手に金棒のマスコットを持ち、何やら吠えているようなシーンが一面を飾っていた。
 これが巨人のような人気球団なら「タレントのような真似はさせられん」となるのだが、日本ハムの場合、柔軟だ。
 大物ルーキーに「ポスト新庄」を期待しているのだろう。

 話題づくりの名人と言えば、3年前の暮れに他界した仰木彬さんだ。
 仰木さんは「パ・リーグの広報部長」を自称し、次から次へと話題を提供した。
 一番の成功例がイチロー(マリナーズ)だろう。言うまでもなく彼の本名は「鈴木一朗」。これじゃ平凡すぎるということで、94年に登録名を「イチロー」に改めた。
 この年、イチローは日本プロ野球の年間最多安打記録を44年ぶりに更新した。「鈴木一朗」のままでは、今のような大スターになっていなかったかもしれない。

 というのも――。
「一回表、あるいは一回裏、真っ先にバッターボックスに入る。その際、スタジアムから一斉に“イチロー”というコールが起きる。あれがイチローを奮起させると同時に、野球をやる上でのリズムにもなっていた。“スズキー”じゃ、ああはならなかったかもしれませんね」
 生前、仰木さんは、私にそう語ったものだ。

 仰木さんはオールスターゲームでイチローを投手として投げさせたりもした。
 これは轟々たる非難を浴びた。もっとも辛辣だったのは当時、ヤクルトの監督だった野村克也さんだ。
「米国では考えられん。球宴を侮辱する。このままでは球宴の格式が下がってしまう。YAWARAちゃんが百メートル走に出るようなもんや」
 球界も真っ二つに割れた。
「球宴というお祭の舞台でファンも喜んでいるのだからいいじゃないか」という声の一方で「ちょっとやり過ぎだよ。話題になるんだったら何をやってもいいってもんじゃない」という声もあった。

 もちろんノムさんはノムさんなりの良心に従って発言したのだろうが、したたかな計算もあったと思う。
 野村監督も現役時代は南海、ロッテ、西武とパ・リーグ一筋だった。セ・リーグとの“貧困格差”を嫌というほど味わった時代の、パ・リーグの代表選手だ。
「長嶋が太陽の下で咲くひまわりなら、オレは月明かりに咲く月見草」
 南海時代には、そんな名言も残している。
「球宴が問題提起の場になるのなら、いっちょう、仰木の発言に乗ってやるか」
 そんな思惑もあったのではないか。

 ヤクルトの監督時代、野村さんは事あるごとに巨人の長嶋茂雄監督(当時)を挑発した。
「天才の考えることは僕らみたいな凡人にはよう分からん」
 そうボヤいて、長嶋さんの反応を楽しんでいるようなところがあった。
 楽天の監督になってからは、福岡ソフトバンクの王貞治監督に、よくちょっかいを出していた。
「野村vs王」となればマスコミは放っておかない。もちろん、それを熟知した上での挑発だった。

 日本ハムの梨田昌孝監督も現役、コーチ、監督とパ・リーグ一筋。近鉄時代は仰木さんの下でプレーをしていた。
 仰木さんがいかにしてメディアを味方につけ、操縦していたかを目の当たりにしてきた。早々と披露した中田に対する“二刀流構想”(投手と野手の両刀使い)などは、明らかに“仰木イズム”の延長線上にあるものだ。

「選手は女優と一緒ですよ。お客さんに見られてうまくなる。だったら僕がお客さんを集めてやろう。パ・リーグでは、それも監督の仕事だと割り切っています」
 それが在りし日の仰木さんの言葉である。

<この原稿は2008年2月29日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

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