塩かな、と思う。スイカにかける塩。いま必要なのは、甘さを引き出すための甘くない、というか正反対の味をした調味料かな、と。

 

 大前提。わたしはいまでも五輪開催を熱望している。今年は無観客の「特別五輪」として開催して、32年に正式な「東京五輪」をやる。そこで無観客開催ではえられない開催地としての旨みを回収する――なんて夢物語を描いてもいる。

 

 なので思う。いま一番やってはいけないのは、大会の顔となる人間に、五輪開催に前のめりな人、前のめりに見える人を選んでしまうこと。それによって、もはや取り返しがつかないほど離れてしまった民意に、最後の一撃を与えてしまうこと、ではないかと。

 

 IOCの前会長が「トキオ!」と宣言した瞬間、わたしにとっての東京五輪は「わたしたちの五輪」になった。それが、コロナ禍が広がったあたりから、「あなたたちの五輪」に変わり始め、森さんの発言とその後の騒動を眺めるにつれ「あの人たちの五輪」になった。なってしまった。

 

 こうなると、どれだけ(1)五輪に造詣があり、(2)理念を実現する能力があり、(3)国際経験&知名度があり、(4)経緯・状況を理解し、おまけに(5)調整能力がある超人がいたとしても、その方が「あの人たち」によって選ばれたというだけで、嫌悪感が込み上げてきてしまう。

 

 それがわたしだけならいいのだけれど。

 

 何がなんでも東京で五輪が見たいわたしは、だから、組織委員会が発表した5つの基準を満たす人材ではなく、小泉元首相みたいな方が必要なのでは、と思う。

 

「自民党をぶっ壊す」というスローガンは、自民党に倦んでいた世間の空気を一掃した。そのままいけば本当にぶっ壊れていたかもしれない自民党は、スローガンのおかげで甦った。森政権下でどん底にまで沈んでいた支持率は、見事なV字回復を見せた。

 

 わたしがいま祈っているのは、心の底では開催を熱望しつつも、開催を前提にした動きはしないという方の登場、抜擢である。

 

 不思議というか、理解不能なのは、一度は政治家に偏っていた次期会長候補の名前が、いまは元オリンピアンばかりということ。コロナ禍に立ち向かうために、離れてしまった民意を取り戻すために、五輪でメダルを取ったという過去が、なんの役に立つというのか。

 

 64年東京は安川第五郎、72年札幌は植村甲午郎、98年長野は斎藤英四郎。これ、歴代の大会組織委会長を務めた方の名前なのだが、さて、この中の何人が元オリンピアンか。

 

 ゼロ。すべて財界人。

 

 なぜ、前代未聞の危機を乗り切るための舵取りを、元オリンピアンに委ねる? そもそも、なぜ日本人でなくてはならない? なぜ自分たちで勝手に枠組みを作り上げ、その中ですべてを解決しようとする?

 

 次期会長が誰になっても、簡単には状況は変わるまい。奇跡のような回復が起きるとしたら、塩かな、と思う。本音の部分ではどうであろうとも、前任者や組織を公の場で断罪するしょっぱい言葉が聞かれれば、嫌悪感だって薄らぐかもしれない。

 

 たとえば「組織委員会をぶっ壊す」とか。

 

 最近になって気付いた。わたしがうんざりしているのは、東京五輪そのものではなく、IOCを筆頭とする、大会を牛耳る人たちに対して、だった。

 

<この原稿は21年2月18日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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