190センチ、110キロという日本人屈指の体格、そして、どのような相手であれ、怯むことなく前に出続けるファイトスタイル――。『逆輸入ファイター』の異名をとるノブ ハヤシ(ドージョーチャクリキ・ジャパン所属)は観る者に強い印象を残すキックボクサーである。


 ノブの格闘技人生は挑戦の歴史でもある。高校卒業後、単身でキックボクシングの本場であるオランダに渡り、名門ドージョーチャクリキで修行を積んだ。99年のK-1ジャパングランプリで準優勝という衝撃のデビュー。オランダから日本への『逆輸入ファイター』として、注目を浴びた。その後も故アンディ・フグ、K-1グランプリ3度優勝を誇るピーター・アーツなど強豪選手と拳を交えてきた。

 現在はK-1の舞台に立つ機会に恵まれていない。しかし、格闘家として強さを追い求める気持ちが陰ることはない。
「今はなかなかK-1で試合に出ることができていない。だけど、やっぱり自分の強さを見せたいですよね」
 07年9月には、後楽園ホールで開催された「TITANS NEOS vol2」に参戦して、ニュージーランドの選手を相手に判定勝ち。3年ぶりの日本のリングを勝利で飾った。

<空手が教えてくれた立ち技の魅力>

 ノブが格闘技を始めたのは高校時代の空手・佐藤塾にさかのぼる。佐藤塾に入門したのは、中学校3年生の頃に深夜のテレビ番組でプロレスを見たのがきっかけだった。それまでは小学校、中学校の9年間、剣道をやっていた。
「(プロレスは)たまたま見てみたら、すごく面白かったんですよ。それ以来欠かさず見るようになりましたね。その頃にちょうどK-1も始まった。それで、格闘技に興味が出て、レンタルビデオ屋に行って、よく借りていましたね。特にUWF(プロレス団体)が好きでした。僕が見始めた頃には既に解散していたのですが、それまでのプロレスと全く違って、新鮮でしたね」

 本音をいえば、キックボクシングをやりたかった。だが、当時の徳島県の格闘技事情もあり、空手を選択した。その時点で、プロの格闘家になることを決めていた。
「自分は体が大きかったし、日本人でそんなに大きい奴がいないということがわかっていた。じゃあ、俺はいけるんじゃないかと」
 身体はとどまることなく成長を続けた。小学校6年生で170センチ、80キロ。中学時代、食事の量が多かったことはもちろんだが、毎日のように約2リットルの牛乳を飲み、煮干などをよく食べていたという。中学卒業時に180センチを超え、高校3年間で190センチにまで伸びた。
 
 空手の世界で頭角を現すのは早かった。高校3年生の初めには、佐藤塾のPOINT&KO東京大会(無差別級)で史上最年少優勝を果たす。空手を始めてわずか2年での快挙である。
「(無差別級でも)体格は大きいほうでしたね。当時、僕はまだ茶帯だった。だから、本来であれば、ヘッドギアをつけなければいけない。でも、周りからは「林くんにはヘッドギアいらないだろう」と言われて、つけさせてもらえなかった(笑)」

 佐藤塾に入門していたとはいえ、高校入学当初は、憧れの前田日明(現HERO`Sスーパーバイザー)が旗揚げしたプロレス団体リングスへの気持ちも強かった。高校1年時には、知り合いの伝(つて)をたどり、夏休みを利用して、10日間、リングスに練習生として参加した。前田をはじめ、山本宣久、成瀬昌由、高阪剛、坂田亘ら当時の所属選手とともに練習し、汗を流した。坂田とは寮で同部屋になり、格闘技談義に花を咲かせた。

 それでも、空手をやるうちに立ち技へ気持ちが傾いていった。当時はK-1が爆発的な盛り上がりを見せていた。高校1年時(94年)、空手家の佐竹雅昭がK-1グランプリで日本人として初めて決勝進出を果たし、3年時(96年)には同じく空手家のアンディ・フグがK-1王者に輝いた。

 自分は同じ舞台でどれだけやれるのか――そう考えたノブはある決断を下すことになる。

(第2回に続く)

<ノブ ハヤシ プロフィール>
本名は林伸樹(はやし・のぶき)。1978年4月27日生まれ。徳島県徳島市出身。高校卒業後、単身でオランダへ渡り、名門ドージョーチャクリキの門を叩く。K-1デビューの1999年ジャパングランプリで準優勝。04年にも同グランプリで決勝進出を果たす。同年、チャクリキのオランダ以外の初の支部であるチャクリキ・ジャパンをオープン。同ジムの総本部館長を務める。戦績は34戦15勝17敗1分7KO(1ノーコンテスト)。190センチ、110キロ。








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